第二十七夜 往生、凪の如く。
薄い消毒剤の匂いがした。嗅ぎ慣れないようで、どこか懐かしい匂い。薄く目を開くと、軽く熱を帯びた視界にグレーの天井が映った。電気の消された、〝家〟の医務室だ。
左の腕は外されていた。ベッドサイドの机に置かれたそれを求めて。やけに重く感じる身体。薄暗さにも少し手こずりながら身体を起こすと、そばで人の気配が動いた。
「――かづき?」
目が慣れて、その影の輪郭をはっきり捉えた。長いこと突っ伏していたのか、下ろされた前髪が面白いくらいに乱れていて。
「……おはよ?
大きな茜色の双眸が、更に大きく見開かれる。灰色の中、次第にそれが潤んでいくのが見えた。ギリギリに溜めた大粒の涙。決壊寸前。その童顔がくしゃりと歪んだ。
「――ッ、ばかぁぁぁあああっ!!」
鼻声の罵声。盛大なモーニングコールに心臓が跳ね上がる。
飛びついた未遥を受け止めるには、片腕のない体幹はあまりに頼りなく。勢いに呆気なく負け、
「まっ、ていだぃ」
「知らねぇよ!しんどけ!」
「うっそでしょさすがに傷つ――」
「やだぁ!しぬなあああっ」
「は、?!な……だッッるお前!」
癇癪を起こす二歳児のように泣き出した未遥に引いて。どうにかして落ち着かせようと背中を叩く。加減は知らない。人を慰める方法なんて己が知るはずも。
肩越しにじんわりとぬるい温度が染みて。しがみつくような未遥の細い指が背中に食い込む。途方に暮れふと扉に目を向けると、眠そうに目を擦った
「……ぁ、おはよ、蒼樹さん。……ねぇ僕どうすればいい?」
「――知るか。私に育児の経験はない」
それは海月とて同じだ。未だ離れる様子のない未遥に、蒼樹は眉を下げて微笑む。
「気が済むまでじっとしてやれよ。覚えてないんだろうけど、三日寝込んでるんだからな、お前」
「マジ?」
身体の重さはそれ故だろうか。ということはだいぶ体力が落ちたらしい。少ししょげていると、未遥が勢いよく顔を上げた。泣き腫らした優しいツリ気味の目が、怒ったようにこちらを鋭く見つめる。
「――海月」
少し嗄れた声は分かりやすく怒りを孕んでいて。言いたいことは山ほどあるとでも言いたげな、質問を迷うような視線。海月の返事に、しばらくの沈黙の末震えた声が言った。
「死刑って、何」
「……――ッえ!?」
死刑って何。未遥の口にした問いが脳内をぐるぐると回った。まさか、そんなことが。唖然とした海月の態度に未遥はついに激昂。無遠慮に掴まれた胸ぐら。仮にも病み上がりへの所業とは思えない乱暴さ。
「姉ちゃんのことも!聞かなかった俺も悪いし、勝手に探ったのだって謝る。けどなんで何も言ってくれなかったんだよ!そんなに……っ」
詰まらせ、未遥の表情に影が落ちる。
「そんなに……俺は信用ないの……?」
「ちがう、ごめん」
また泣き出しそうな目が海月を向いて。信用がないわけがなかった。むしろ、それがあったから。ただ、ただ。
「……忘れてた」
「…………はあ……?」
「や、言った気になってたっつーか…………ごめんね」
タイミングを伺っていた謝罪は、自然と口から抜け出した。暴力的なまで急速に縮まった距離故の忘却だ。そこに複雑な感情は一切ない。
罪も過去も、今はどうでも良くなって。やりようのない怒りに爪を立てる彼がただたまらなく愛おしかった。堪えきれず吹き出すと、緊張が解けるように未遥は深く息を吐く。
「……死んだら殺すって、言った」
「まだ有効だったの、それ」
「あたりまえだろ、クソ野郎」
笑いは止まらず。己に向けられる感情全部が嬉しくて仕方なかった。これで彼に対する未練も。
「ね、返事は?許してくれる?」
「…………いーよ、俺のが先輩だからな。次は許さねぇ」
「……ん」
安堵。だが次はもう来ないだろうと、ただ態度には出さなかった。
*
部屋でやれ、と苛立ちを募らせた蒼樹に医務室を追い出されて。自室。変わらない空気。変わるわけもない短期間の不在だったが、起きた出来事の色濃さにこの生活感が酷く懐かしく思えた。
ただ部屋には静寂があった。何から話すべきかを、互いに読み合うような張り詰めた静けさ。ふぅ、と未遥は気まずさを誤魔化すようにおもむろにペットボトルの水を呷った。
「――ごめん、海月」
「……?」
「……俺、あの時お前のことなんも考えてなかった。俺の悪い癖なんだ。必要以上に干渉しようとすんの。もうしない。──ごめん」
「……うん」
シングルのパイプベッド。割と古いそれは未遥が腰掛けると小さく軋んだ。隣に行くのはなんだか気が引けて、海月は敷かれたままの布団の上で足を崩した。
「──ホントに嫌だったらこれ以上聞かねぇ。けど……俺に話してもいいってなら、聞かせて欲しい。俺はお前のことちゃんと知ってたいから」
未遥と目は合わなかった。どこまでも真摯な彼にそっと眉を下げる。
「……どこまで知ってる?」
「……暴走しかけて死刑ってのと、戦争ではぐれた姉ちゃん探しにここ来たってこと」
全部じゃん、と笑いが乾く。ならもう隠すことも何もない。あのね、と海月は未遥の目を覗き込んで。
「僕、姉さんはもう探せない」
「……へ、?」
大きな目が見開かれる。構わず、海月は笑って続けた。
「気付いた……てか、あん時思い出したの。僕に姉さんを探す権利はなかったって。姉さんを戦場に追いやったの、僕だったから」
六畳程度の狭い部屋に、重苦しい空気が冷える。
僕が、姉さんを戦場に追いやった。
吐き捨てるような海月の告白に、未遥の呼吸が浅くなって。
「……え?」
その言葉の意味を、未遥は飲み込めないようだった。表情の作り方を忘れたように、言葉の発し方を忘れたように。ただ整った童顔を僅かに歪めて、目の前の化け物を見つめていた。
「つまり……どういうこと」
動揺を誤魔化しきれない苦笑を返され、海月は乾いた笑いを笑った。天を仰ぎ、寄りかかったパイプベッドが軋む。
「――聞く?」
そう聞いた声は言った自分も驚く程に酷く虚ろで。未遥は、こちらを伺うように頷いた。
「……あの戦争の時、姉さんは僕を助けてくれた。あの時姉さんがいなかったら、僕は死屍守に襲われて死んでた。……それなのに僕は、姉さんを罵ったんだ」
*
僕は、戦時中に生まれた。
今から三十五年前の一月一日。たった一匹の【王】から、それは起こった。その昔、世界を殺した病毒。その根源の鎮められた地が、とある男の襲撃にあった。史上最悪の墓荒らしと称された、ヨコハマ全土に死屍毒がばら撒かれ巻き起こったパンデミック。その影響により【王】、【女王】が大量に出現し、ヒトと元ヒトの戦争へ発展した。
戦地となったヨコハマ。地上は死屍守で溢れかえり、現地のドールは皆無条件で戦場へ駆り出され、ゲンガーは地下へ逃げた。戦闘の知識などないまま地上に隔離されたドールは、ゲンガーを守るため戦いを強制され、そのほとんどが死んだ。
僕は地下街育ちだ。地下で生まれ、太陽を知らずに育った。ドールという身分は隠し、ゲンガーとともに育った。
地下街が、平和というわけではなかった。簡易的な教育施設や病院はあったものの、情勢も相まりその質は粗悪なもので。太い交通機関は軒並み閉鎖。閉塞的な空間への苛立ちか、終わりの見えない戦争への、その不安から生じた気の狂いか。人々の争いは絶えず、薬や犯罪が
当時戦況は死屍守の優勢。僕が五歳の頃。とうとう、地下街へ死屍守が流れ込んだ。阿鼻叫喚の地獄と化した名ばかりの安全地帯。炎が赤々と燃え上がり、逃げ惑う人々が壊れた人形のように倒れていく。何が起こっているのか、幼い頭では分からなかった。ただ、すぐ隣で倒れた見知らぬ人は、もう二度と起き上がらないんだろうと、それだけがはっきりと理解出来て。そして。今でも夢に出る、母親の最期が。
『逃げて』
修羅場の中心で、死屍守が母親へ群がっていた。重たすぎる恐怖に泣きながらぽかんと立ち尽くす姉弟に、母親はただそう苦しそうに怒鳴って。見たことの無い顔をしていた。と思う。涙で視界が霞んでいて、見慣れない炎の赤が透けて見えていただけだったかもしれない。
『――
凪月。
けど。
母親が遠ざかるのを、僕は拒んだ。嫌だと泣き叫んで、その華奢な腕の中で暴れた。短い腕を必死に伸ばして、熱風に焼けた喉で母親を呼んだ。凪月は構わずただひたすら、まるで母親から、その現実から逃げるように地獄を駆け抜けた。僕の身体を縋るように抱きしめて。だから母親の最期を見たのは、僕だけだった。
目が合った。母親の涙を、僕はその時初めて見た。最初で最後の。人の死を、その絶望を。その時初めて知ったのだ。
母親が最期に向けたのは笑顔だった。泣き止まない赤子をあやすような、柔らかな笑みだ。奇麗だった。形を保てなくなった母親の身体から、花が咲くように赤い鮮血が噴き出した、その残酷さが
逃げ続けて、死屍守の絶叫も混乱した人々の喧騒も遠ざかった頃、僕は疲労に緩んだ凪月の拘束から抜け出した。小さな身体の面積に釣り合わない数の傷。靴も履かずに、瓦礫が素足にくい込んで、それでもなお僕は来た道を戻ろうと地面を蹴った。
『かーくん!!』
まるで悲鳴のように。慌てた凪月に抱き締められて。やりようのない、どうしようもない憤り。情報過多にパンクした思考。遂に僕は発狂した。
『なんで!!なんでかあさんをおいてったの!!ナツのせいで!!ナツのせいで、!!ナツなんてだいっきらい!!』
熱を伴った喉の痛みに、母親の死を理解してしまった気の動転と喪失感に、僕はおかしくなったように泣き叫んだ。母親が死んだのはお前のせいだと、お前が見捨てたから母親は死んだと。あろうことか、母親を亡くしたばかりの、まだたったの十四年しか生きていない少女へ狂った冤罪を投げつけた。
『……、ごめん……ごめんね……かーくん……』
どんな気持ちだったろう。母親の、遺言となったそれを果たそうと。その最期を背に受けながら、必死に守りきった弟に責められて。唯一残った肉親に突き放されて。拙い語彙で繰り返された罵声に、凪月はただ苦しそうに謝るばかりだった。
*
「――そのあと、偶然拾ってくれたおじさんがまだ生きてた疎開地行きの臨時急行に乗せてくれた。姉さんと孤児の施設に入れられて、けど気付いた頃には姉さんは居なくなってた。姉さんが兵役したって聞いたのは戦争が終わったあと。最初のうちは一緒に居た記憶がある。姉さんがそばに居てくれてたから。……けどあの日からどう接すればいいのか分からなかった。……まともな会話もしないうちに姉さんは戦場に行った」
戦争が終わった六年後。十四の年だ。施設を抜け出す準備をしていた海月を一人の男が尋ねた。足の片方が偽物だったのをやけに鮮明に覚えている。彼は父親の友人だと言った。
『ワカにそっくりだな、君も』
そう言われて、不思議そうな顔をした海月に彼は困ったように笑って。不破
父はゲンガーだったらしい。だったのにも関わらず、軍人だった彼はその正義を胸に戦地へ赴いた。一向に良くならない戦況に。当時身重だったドールの妻とゲンガーの娘を守るために。愛してると告げ、汚い同胞を否定しようと戦った。そして、息子の顔すら知らずに散った。
父の遺体は帰らなかった。死屍毒にやられて何も残らなかったと、帰してやれなくてすまなかったと泣いて謝った、海月にとっては他人の彼の顔が、父親に関する唯一の思い出だった。
面会終了の時間が迫った別れ際、ふと頭に浮かんだ疑問を呟いた。答えを得ようとした訳ではない、得られるとも思っていないただの独り言のような。
『――凪月って、どっか行ったんですか』
彼は酷く驚いていた。言葉を紡ごうとする彼の唇が震えていて。今になって思えば、その時、海月がした返事はあまりにも冷たく素っ気なかったのかもしれない。
『しらないのか』
――凪月ちゃんは随分前に兵役したよ。
話し終えて、嫌に喉が乾いていた。ベッドに投げられた ぬるいペットボトルの残りを飲み干して、やっと未遥が泣いているのに気がついた。
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