第二十五夜 正義執行、俄雨。
閉まったシャッターに穴が空き、衝撃にどこかのガラスが割れる。常人のそれとはかけ離れた身のこなし。間合いに入るどころか近寄ることすら困難な。圧倒的に不利な状況に体位を低くしたまま
「……そんな怖い顔しないで?」
「失礼だな、人の顔見て」
体術は得意分野だ。任務外、
ただ。立て直し、地面を蹴って。
雨音の動きにはどこか妙な懐かしさを感じた。長柄の武器の、その軽やかな捌き方とその正体。かつて中華街で受けた
「……きもぉ。別に、笑えなんて言ってないよ」
「黙っとけ、クソガキ」
言葉に、雨音はこてんと首を傾げ微笑む。
「こっから?」
「そーだね、おまたせ。やっと腹減ってきたよ」
再開。飛ばされ、己の身体に突き刺さった血液製の凶器を引き抜き振るう。
野蛮な攻撃。掠めた彼の頬に一線の血が走って。変わらず雨音の優勢。だが一度、間接的に覚えた細やかな癖に適応。
振り下ろされた
「……――ッ、れ?」
次に、雨音が落ちるように地面に座り込む。ぽかんと状況を飲み込めていない腑抜けた表情。
彼の脚。薄い布一枚に包まれただけの脆弱な防御力の。晒された
海月は乱暴に口元を拭った。雨音を今度は見下ろすその
「……んは、っ、ふふっ」
雨音の目が輝く。玩具を与えられた子犬のような、親を目にした赤子のような無垢な。
「――最ッ高……」
負傷した脚のまま。
「きっしょ、この戦闘狂が」
罪悪感も今は完全に消えていた。己はバケモノだと、その自覚に心は安らいで。ただ腹が減っていた。喉が鳴って、それに共鳴するように、腹の底で主張を強めた空腹感。
相変わらず、同じ人間を食糧として見るなんて無理だ。人は食い物じゃない。ごく普通の感性。まだ己は正常で。けど。形式が違っているだけで、己はこの切なさを知っている。何度だって味わってきた、人間に対する飢え。食っても食っても、無くならない腹の切なさを。
食い殺せ。
どこから食ってやろうか。どうせなら、美味そうなところからがいい。迅速な雨音の復帰に無遠慮な拳を叩き込んで。己より薄い身体に対し卑怯なまでに体重を乗せた暴力。晒された僅かな白い肌。透き通るようなそこに赤い鮮血がよく映えた。
反撃で興奮に頬が色付いた彼の表情は楽しげだった。欲しがるような、飢えているような欲の色。文字通りの戦闘狂らしい。変わらず、あるいは増した彼の無邪気な狂気に口の端を上げる。
「ちょっとは食らってよ、さすがにへこむんだけど」
「ごめんね、耐久力には自信あるんだぁ。頑張って?」
誤差の範囲。だが確実に落ちた動きの質につけ込み間合いに身体をねじ込んで。
*
両者の身体に生傷が増えて。やがて、海月の手が雨音の首を掴んだ。出血に朦朧とした意識の中、硬い床に投げ付けるように圧をかけて。空気を遮断され彼は短く喘ぐ。関節を捕らわれ身動きは取れないようで。もがき、無作為に突き刺された殺意すらも、心地よく感じるような高揚が海月にも芽生えた頃だった。
殺れる。僅かな確信を覚えたその時、ジク、と喉に刺すような痛みが走った。思わず、動きを止めて。
「……?、ッ――!」
炭酸が流れ留まるような喉への刺激。自覚に違和感ははっきりと輪郭を帯びる。内部での異変。まるで
油断に咳き込み、ふらつく足に必死に力を入れて。耐久力云々は本当らしく雨音は涼しい表情で凛と立っていた。強がりの文句も、口にする余裕など今はない。
嘔気。上ってくる制御不能の圧に勢いよく身体を折り曲げた。吐き出された赤黒い肉片混じりの胃液。体温に喉が焼かれて、また強い刺激が体内で暴れた。
自身の異変に海月は
急変した海月の様子を、しかし雨音は平然と眺めた。
「……
口振りから察して彼が何かをしたことは明確。だがヒントのあまりの少なさに雨音を睨むことも出来ず酸欠に喘ぐ。
憐れむように、つまらなそうに雨音は海月を見下ろした。
「だめじゃん、何でもかんでも口に入れちゃあ」
「──っ、なに……し、ッ」
「なんもしてねぇよ。お前が勝手に僕を食べたんだろ。……『飼い主』、だっけ?下手なんじゃないの、躾」
芽生えた怒りも呆気なく苦痛に押し返されて。痙攣を始めた身体に思考は困惑で埋め尽くされる。
「……なんか、飽きちゃった」
ぼそ、と呟き雨音は再び手を握った。生成された血色の槍。蹲る海月を跨いだ長い脚。彼から離れようと、海月は震える指先を握り込みながら這いずって。
無情。事務的な殺意をもって、雨音は海月の背を槍で突き破った。
「……っ、゛お、゛あ」
右胸部の下。空いてはいけない場所から覗く
「あっは、やっぱりタフなんだね。これでも死なないんだ」
「――ッ、ヅ」
槍が引き抜かれて。蛇口が壊れたような流血。分かりやすい致命傷。だが不思議と恐怖はなかった。これは受けるべき己の痛みだと、自覚だけが鮮明に意識を保っていて。
ふと、茜色の瞳が脳裏に浮かんだ。葬儀屋の肩書が似合わない、純粋な性格が滲み出る童顔。初めて出来た友人の、最後に見た顔は悲しそうに怒った表情だ。途端、果てしない寂しさが押し寄せる。また繰り返すのか、己は。
「──遺言、聞いたげようか?」
いつか耳にしたその問い。これが雇われ兵を生業とする彼らなりの慈悲であり正義なのだと、やっと理解した。今になって思えば当時、この問いを受けた己の返答は彼らの正義を踏みにじった失言だ。つくづく、最低。
海月は薄く笑った。傲慢だが、今はこの慈悲に縋りたかった。
「──ごめん、なさい」
一際大きな貧血の脳の揺らぎと増す苦痛に、吐血。遂に海月は伏した。
「…………」
遺言に興味はない。傭兵の、これは正義で義務だ。命あった者への葬送の儀。
言い遺し動かなくなった海月を見下ろして、雨音はひとつ息をつく。壊してしまった。だが気分は満たされて。冷めない高揚に汗が滲んで。まだ微かに息のある海月に嘆息。生命力は高いらしい。
人を嬲る趣味がある訳ではない。これ以上苦しむのは辛かろう。
足で不躾に海月を寝返らせる。まだ生ぬるい鮮血が足先を濡らした。呆気なく終わってしまった、しかし己に付き合ってくれた彼の命に敬意を払って。
「楽しかったよ。ありがとうね」
心からの感謝を込めて。今度はその心臓を狙って、同色の槍を振り上げる。
――直後。
腕に突風のような重たい衝撃。キン、と甲高い金属音とともに、雨音の手から槍が弾かれた。
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