第二十四夜 鉄香のペトリコール

 嫌な気配だった。誰、と尋ねた声は掠れた。


 彼は平坦な声で答えた。


雨音あまね


 名を聞き、その圧の異質さを理解。ひっそりと背筋が冷える。が。力なく、だが動揺を押し隠そうと無駄に挑発的に海月かづきは苦笑をこぼした。


「戦隊長さんか。なぁんだ、男だったんだ。かわいい名前してんね」

「……?どういうこと」

「別に、こっちの話」


 目を逸らして、不思議そうな反応が返る。


「……いいや。杜也となり、何コイツ殺すの?」


 無邪気な声に似合わない物騒な文字列。杜也はなんともないように首を横に振った。


「……いや。そいつの、切ろとしただけや。あの嘘吐き野郎の匂いがするってさ」

「ふぅん……まさか玲於れお、うち入れるつもり?」

「――彼には素質がある。あっちに居るよりずっといいだろうと思ってね」

「そっか」


 再び降りた沈黙に、軽い衣擦れの音が落ちる。


「ねぇ猟犬くん」


 そう雨音はしゃがみ込んで海月に目線を合わせた。作り物のように奇麗な顔に覗かれて。地球を閉じ込めたような奇妙な虹彩。人間じゃない。なにか美しい別の種族みたいだと固まって。


「お前どうしたい?」


 彼のまとう、安心すら覚える高圧な空気に僅かに残った意志が喉を微かに震わせる。


「……殺して欲しい」

「…………なんで?」

「死んでおくべきだった。僕は最低だ。だから最後くらい被害者になりたい」


 最底辺まで落ちている自分は。純粋な悪人として死ぬのが、せめてもの贖罪になるのなら。海月の回答に、しかし雨音は微笑んだ。違和感を感じさせない不気味な反応。


「……ねぇ玲於、なんか可哀想だよ。帰してあげよう?――僕、コイツ外まで送ってくるから。……いいよね?」


 その虹彩が玲於を向いて。驚きの後で、彼女はため息とともに首を縦に振った。


「──わかったよ。……だが私の客だ。せめて、丁寧に扱ってくれ」


 その態度の急変に声が漏れた。あれほどに海月を追い込んだ執着が、嘘のように消え去って。


「いこ」


 海月を呼ぶ、逆らう気の起きない圧倒的な強者の声。それが戦隊長とやらの威厳なのか。狼狽える海月に構わず、雨音はそのまま腕を引き部屋の外へ連れ出した。



、か」

「そうみたいだね。あーあ、餌を横取りされた気分だよ」


 杜也と二人残され、玲於はソファに勢いよく体重を預けた。ギュ、と革の軋む音。


「それにしてもやけにすんなり諦めたな。あの雑食野郎もさすがに怪しんだんとちゃうか」

「諦めてなんてないよ。私なりの慈悲さ。雨音も最近つまらなそうにしていたからね」


 *


 施設の正体は遊技場だった。いかにもな見た目をした大人共が、恐らく違法に染められた金を手に、ヤニで黄ばんだ歯で汚らしく笑っている。きろきろと、焦点のあっていない目がこちらを向いては逸らされるむず痒さ。


「――こわい?」

「……別に。けどアイツら?お前らの依頼主って奴」

「ううん。アレは住人。ご主人は今の時間は上の部屋」

「……へぇ」


 理解しようとは思わず。会話がそれ以上弾むはずもなく、そのままの空気感で廃れた遊技場の昇降口をくぐる。外は暗かった。見知ったヨコハマにしては暗い夜。遊技場から漏れ出す蛍光灯に蛾が群がって。


「――で、何、死にたいんだっけ」


 そう、平坦な雨音の声がベタつく夏の夜にすぅっと溶ける。


 即答はできなかった。死にたい訳ではない。覚悟はできていても、死ぬのはまだ怖いから。ここまでズルズルと生きてきてしまった我儘なそれが理由だ。


 けどだからといってこれ以上生きていたくもない自己矛盾。


 だから殺して欲しかった。このまま生きるのももう耐えられそうにない。全て投げ出して、被害者になりたかった。救いようのないクズだ。けれどそれでしか、海月には恩人を守れない。自分の犯した罪を償いきれない。黙り込んだ海月に、雨音は続けた。


「うちの子、なる?」

「……ないたいわけないだろ」

「だよね、よかった」


 思わず雨音を見た。問いを続けようとして、彼の次の句に遮られる。


「じゃ、僕と戦お?」


 沈黙。長い沈黙。


「……は?」


 やっと口に出した疑問は綺麗に闇に消える。脈絡なんてなかった。言葉と声色の温度差に間抜けな音が漏れて。理解が出来ない。なぜか雨音が不思議そうに首を傾げる。


「だぁから、戦って?僕と」

「……なに言っ――」


 ビュ、と耳元で風を斬る音。遅れた細い激痛とともに、頬の肉が薄く裂けた。サッと血の気が引く。


「なん……っ、ッだよ、急に……!」

「急じゃないよ。タダで帰すって誰が言ったんだよ」


 豹変。トリガー不明の興奮に低く荒げられた少年の声。そう言って距離を詰めた雨音の手にはいつの間に赤っぽく黒光りする刃物が握られていた。派手に露出した純粋な殺意に本能が逃げろと警鐘を鳴らす。的確に急所を狙う猛攻に咄嗟の抵抗。


「んははッ、やっぱり死にたくねぇんじゃん、よかったぁ!」


 台詞と反対に、雨音の殺気は鋭利に研がれて。口数とともに増える攻撃に防御が追いつかない。洗練された体さばきに海月の身体は飛ばされる。


「マジっ、なんなの……お前……ッ」


 追い詰められ、雨音はそれでも変わらないふやけた口調で言葉を紡いだ。


「どーせ僕、紗世さよのせぇで謹慎きんしん食らうからさ、その前に遊んで欲しいんだよね。……あいつそっちいるんでしょ?元気してる?」

「……っなんで」

叡士郎えいしろうから聞いたんだ。新しい友達がどうとか濁してたけど、どうせ紗世がなんか言ったんじゃない?……たとえばぁ――葬儀屋になりたい、とか」


 ぞく、と怖気が走った。かたりと時が止まるような錯覚。アタリ?と雨音は無垢な表情で笑う。反応は返せない。


「困るんだよなぁ……怒られるの僕なのに」


 不穏な空気を漂わせた雨音の言葉に、無意識に声のトーンが落ちる。


「……お前、紗世ちゃんに何かする気?」

「なにって……紗世がなにかしない限りなーんもしないよ。無駄な体力使いたくないし。まぁ……殺されても文句は言えないよね」

「な……」


 戦慄。まるで罪の意識がない。それの抜け落ちた、言葉通り兵器の。


「……嫌?紗世死んじゃうの」

「……」


 雨音の声はどこまでも甘く、そして無機質だった。子供っぽいその無邪気な口調に反して、そのどこにも感情が乗っていない。狂気的な人外感。肌で分かった。この男、だいぶヤバい。異端児の集まりとは聞いていた。でもこれはなんだか、ベクトルが違う。その異質さは今までに出会った人間の中でも群を抜いている。


「嫌とか、そーゆうんじゃない。……けど紗世ちゃんはただの善人だ。お前らに殺されなきゃなんない理由がない」

「嘘でしょ。善人の間違いじゃない?今まではうちにいたからいいけど、あの性格で傭兵上がりなんて僕らからしたら邪魔でしかないよ。馬鹿正直に自首とかしちゃうタイプだろ、アイツ」


 ぶち、となにかの切れる音がした。だってこれ以上、善人が貶められるのは見ていられない。咎められるのは悪人だけで十分だ。


「すっげぇ嫌な言い方すんだな。お前が拾った子じゃねぇの」

「拾って鍛えてあげたのにそれを仇で返そうとしてるアイツが悪くない?強くしろって、頼んだの紗世だもん」

「仇で返そうとなんてしてない。紗世ちゃんはだからあそこまで悩んだんだろ」


 被せ、遮るような雨音のため息。隠す気のない嫌悪感を押し出して。


「知るかって。……じゃあこうしようよ。今から戦ってお前が勝ったら紗世には一切手ぇ出さない。その代わり、僕が勝ったら今度は僕が紗世のこと迎えに行く。どお?」


 乗らないならくれてやるとでも言うような、投げ捨てるような理由の提示。一人の男の欲のため軽視された人の命。気分は最低だ。


 紗世に生きろと言える立場の人間ではない。けど彼女が納得のいく死を迎えられるのを望むくらいは。


 理想の死を迎えるのは誰しもに認められた人間の特権で、他のどの権利より叶い難い。それが〝人形〟ならば尚更。海月は雨音をに真っ直ぐに睨みつける。


「……悪いけど、僕は善人じゃない。人のためにって本気出すとかそんな漫画の主人公みたいな性格してないから。そもそも紗世ちゃんは僕に守られるような子か?」


 挑発的な海月の言葉に雨音はあざとく唸る。


「そうかも。でもお前、どうせ自分が条件になったって本気でやってくれないでしょ?だったら最後まで加害者のまま殺すほうが僕が楽しい」


 変わらず終わっている思考回路。ぐ、と喉奥に氷を詰められたような怖気が走る。反対に、彼は幼く笑った。


「向いてるって、玲於の言い分もわかるけど。僕は正直歓迎しない。だってお前がうちのになっちゃったら、戦える理由も減っちゃうでしょ。手合わせなんて生ぬるいのは飽きたんだ。鬼ごっこなんてもっとつまんない。僕は本気の殺し合いがしたいのに」

「お前……イカれてんだろ――っ、!」


 話は終わりとでも言うように、再度雨音の無邪気な殺気が向く。後方へ飛び退いて、彼との距離を保ちながら状況の把握を試みる。


 葬儀屋としての日常は想定より海月の身体能力向上へ貢献しているようだった。戦場で広まった視野で雨音の行動を追って。


 一つ、舌打ち。どこで死のうが、どう死のうが、どのみち約束されていた地獄だ。ここが、きっと己だけを裁ける最適解。


 手が届く範囲でよかった。ヒーローになりたいわけじゃない。自分は自分勝手な罪人で、その事実も過去も覆らない。


 それでも身近な人間の理想は誰にも邪魔されたくないと。そう思うくらいは許してくれたっていいだろう。


 覚悟は決まってるはずだ。もうどうにでもなれ。


 呼吸を整えて、軽く足を開く。海月は静かに雨音を見据え、無言の開戦宣言。


 雨音が掌を握り込むと、弾けるように赤い液体が飛び散って。長く伸びたそれが次第に槍を象る。


「そーこなくっちゃ。副作用ありね?そっちのがアガるでしょ」

「……食われたいとか、正気?」


 引き攣った海月の声に、雨音は無邪気な、それでいて感情の抜け落ちたようなニヒルな笑みを返した。


「いいね、いいよ。召し上がれ」

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