第二十三夜 正義の断罪

 お前のせいだ。


 お前がいたから。


 この人殺し。


 *


 遠くでぼやける喧騒。紛れて聞こえてくる、男女の会話。


「――姐さん、こんなん拾ってきて、どうする気や?」

「ふふ、可哀想な迷い犬だ。助けてやろうと思ってね」

「はあ……相変わらず、物好きやな。……まさか、うちに入れるなんて言わへんよな?」

「そうだと言ったら嫌?」

紗世さよだって帰ってこぉへんのやで。これ以上厄介事増やされるなんて、支配人も気の毒――」


 薄く目を開け体勢を変えると革の分厚く擦れる音がやけに大きく鳴った。二人分の視線が海月かづきを向く気配。


 見覚えのある顔と目が合っていた。一人は恐らくここへ連れてきた張本人。もう一人はかつて廃病院で知り合った同年代の剣士。


 精鋭部隊の二人。ということはここは傭兵の。


「――おはよう、少年」


 その赤い片目でこちらを射抜いたまま、玲於れおはそうにこやかに手を振った。その態度に漸く思考が輪郭を帯び、勢いのまま飛び起きて。寝心地の粗悪なソファ。硬い革張りの年季もの。それの上で長い間同じ体勢でいたようだ。動く度に関節が軋み顔をしかめる。恐怖に苛立ちが勝った。


「……ッてぇ…………何?ここ」

「俺らの〝家〟や」


 そう見下ろし、杜也となりが嫌悪感を含ませた声色で答える。〝家〟。視線だけで陰湿な空気の充満した部屋を見渡し、海月は挑発の如く顎をしゃくった。


「ふーん、随分居心地悪いとこ住んでんね」


 無言の殺意が鼻先へ。隠す気のない舌打ちにやっべ、とわざとらしく目を逸らしてみせる。


「口の利き方には気ぃつけろよ、雑食野郎」

「杜也。君も大概だ、それはしまっておけ」


 優しくも威厳のある声の制止。不貞腐れたように、それでも渋々身を引いた杜也はまるで飼われた猛獣。


 再び降りた沈黙。察するに、まだ発言権は海月にあるようだった。


「……何がしてぇの、あんたら」

「鈍感だな。勧誘だよ」


 落とした声のトーンに表情も変えず、玲於は淡々と言葉を紡いで。鈍感はどっちだ。海月はわざと舌打ちを響かせる。


「言ったよね、僕は傭兵になんてなんない。さすがにそこまでバカじゃないし。それにあんたがしてんの、多分勧誘じゃなくて誘拐だから」


 心外だ、とでも言うように、海月の口答えに玲於は眉をひそめて。わざとらしい悲愴ひそう感に呆れる。


「その顔したいのこっちなんだけど?自分を殺そうとしてくるやつしかいないとこ、入るワケなくね?」

「……勘違いするな、私たち個人に君への殺意はない」

「はあ……?」


 だったらこの状況はなんだ。玲於への視線を研ぐと、彼女の横で杜也が平然と口を開いた。


「玲於の言うとることはマジやで。俺だってあの時、自分の暗殺依頼で行っただけやからな。自分の生死に興味あんの俺らの主人だけやし。そーやないと死刑から逃げる方法とか言わへんやろ」


 なるほど。だが聞いたままの、どこまでも自由で常識から外れた雇われ兵。まるで殺しを正当化していることにすら気付いていないような杜也の言い分を、海月は理解できなかった。


「殺そうとしてきたことに嘘はないだろ。僕は『墓守』だ。……死刑だって、覚悟くらいとっくにできてる」

「ハッ、よぉ言うわ」


 何度目かも分からない舌打ち。限界だ。正直、ここで二ヶ月を過ごした紗世の気が知れない。彼女との初対面を思い返し、漸くこの異常な状況にはっきりとした疑問と恐怖が芽生えた。同時に、酷く〝家〟が恋しくなって。


 久しい感情。あの〝家〟のあたたかさが。家族の待つ当たり前が。それがどれだけ贅沢な事だったかを思い出して。たったの一日も、それもこの数分もたないほど、海月は『墓守』を好いている。


「……もういい。お前らと話してるとおかしくなる」


 反応も見ずに立ち上がり、逃げるように二人の間を縫って扉へ。手をかけてふと、背中に玲於の嘲笑が投げつけられた。


「まぁ待て。その『墓守』に帰りたくないのは事実だろう?」


 キン、と冷たく耳鳴りがした。馬鹿らしい、玲於の問いかけ。そんなわけないと、また挑発的に笑おうとして。


「そ、ッ、…………っ」


 なのに、どうして。言葉が詰まる。己の帰る場所はあの〝家〟であると、その自覚はある。早く帰らなければ。帰って、未遥みはるに。けれど。


 強い当惑。反論が、思い浮かばない。


 言葉を詰まらせた海月に玲於は楽しそうに続けた。


「やっぱり、なにかあるんだね。あの嘘吐き野郎のことかな?それとも……別の?なんだ、人でも殺してたか」


 見透かすような視線に冷たい汗が伝う。次の言葉を紡ごうとして、出てきたのは掠れた吐息。


 お前のせいだ。


 あの夢の後から。はっきりと記憶が形を持って浮かび上がって。


 お前がいたから。


 ドアノブを掴む手が震えていた。力の入れ方を忘れたように。部屋は夏の空気を孕んでじっとりと蒸し暑い。それなのに、脳は寒さを錯覚し身震い。


 この人殺し。


 思い出した、思い出さないようにしていた幼少の記憶の全て。決して綺麗なものではない、最低な己の犯したその罪を。


 遺体は見たわけじゃなかった。その知らせもない。


 ただ、海月には姉が生きている証明ができない。


 できなかった。


 ごめんね、かーくん。


 だって。震えていた。夢の中姉の声が、弟から投げつけられた冤罪を受け入れるように。


 母さんが死んだあの日。姉さんは僕を助けてくれた。僕が今生きてるのは、姉さんが僕を連れて逃げてくれたからだ。――なのに僕は、あの日姉さんを罵った。


 僕のせいだった。僕のせいで、姉さんは。


 腕はだらりと脱力。青ざめて、ただ呆然と立ち尽くして。


「……ごめ……なさい」


 ただ一つ、無意識的にこぼれ落ちた謝罪。誰に対してでもない、許しを乞うたわけでもない、漠然と己の犯した罪を認める罪人の呟き。


 はは、と玲於の乾いた笑いが遠く聞こえた。


「……やっぱり向いているんだよ、こっちの方が」

「ち……、」


 違う?何を言っている。


 僕が『墓守』にいる権利は。


 あの〝家〟は、罪人の帰る場所じゃない。


 姉はゲンガーだった。戦い方なんて知らない幼気な少女だった。そんなゲンガーが戦場に出るのは猿でも理解出来るほどにわかりやすい自殺行為。


 だから彼女を罵って、戦場にまで追い詰めた僕はただの人殺しだ。


「怖いか?……怖いなぁ、自覚というのは」


 海月の修羅場にも、玲於の声色は変わらず明るい。悪魔のような嘲笑。玲於の赤い視線に腰が抜けた。副作用を使われたわけではない。ただその威圧感に本能的な恐怖心。つぅ、と玲於は海月の首筋を撫ぜた。触れただけなのに、締められるような圧迫感に顔が引き攣る。


「私は子供を愛している。特に君みたいな可哀想な子は放っておけないたちでね。……人を殺したからなんだ。知っているだろう、葬儀屋と傭兵は別物だ。少なくとも、私は君を歓迎するよ」

「……っ」


 慈愛を貼り付けたような無表情に後退る。口説くような、甘い低音。


 足を洗えどその手は汚れたままである。その上、手を染めるのは洗うより容易い。


 ただ。脳をよぎった思考を振り落とす。海月の裏切り行為に、その不利益をこうむるのは燈莉とうりだ。海月の死刑を執行し、その後で自身も罰を受ける条件。共犯者という歪な師弟関係を成立させる為の縛り。


 彼がなぜ玲於に〝嘘吐き〟と呼ばれているかは分からない。だが、海月にとっての彼は恩人だ。海月の不明瞭だった未練のため、自らも縛りを受けてまで、共犯者として生かしてくれた人だ。それを、裏切るなど。


 そこまで思考して、逆か、と思いなおった。


 自分がいなければ、そもそも燈莉は余計な罪を背負ってなどいない。もとより自分は、偶然生き残ってしまった死に損ないだ。


 全て、お前の罪だろう。


「…………殺して、ください」


 自然と口をついて出たその言葉。死ぬのは嫌だ。けれど自分は生きているべき人間じゃないと。『飼い主』を死なせた日。違う。


 母親が死んだ日。あの日大人しく死んでおくべきだったと。


 どこまでが〝裏切り〟になるのか、海月の頭では正しく解釈が出来なかった。けれど。目の前の傭兵なら。彼らの自由さが今は唯一の救いのように見えて。葬儀屋に縛られない彼らならば、自分を正しく殺してくれるはずだ。


 だが玲於はカラリとした失笑をこぼし眉を下げた。


「私に子供を殺せというのかい少年。早とちりが過ぎるんじゃないか?君にはまだ道があるだろう。――杜也」


 静かな呼び声に杜也は同じトーンで応じた。


「……この子のを切ってあげよう」


 思わず顔を上げた。今、なんと。海月の反応に構わず、杜也はニヤ、と悪そうに笑む。


「……ええんか、あいつにちょっかいかけるようなマネして」

「取られる方が悪いだろう?それに嫌な匂いがするんだ。あの嘘吐き野郎の匂いがね。私の方が上手くこの子を愛せる。そうは思わないか?」


 自信に満ちた玲於の横顔。海月の首に巻き付く執着のような鎖の首輪を錯覚し杜也はふん、と鼻を鳴らした。


「俺は知れへんで」


 吐き捨てるように言い切り、杜也はそっと腰の刀を抜く。擦れるような金属音と、切れかけた蛍光灯の薄暗い光をグレーに反射する刀身。整った姿勢。


 嫌だ。


 我儘にも、脳に浮かんだのはその拒絶。だってこれは。海月にとってのこのは、海月が海月としてあの〝家〟に居られた印。『墓守』の家族である唯一の証明だ。


 罪人の自分では、もう二度とあの〝家〟には帰れない。でもこれだけは、どうしても手放したくなくて。


 萎縮した身体はだが動かずに。無防備な首へ迷いなく振り下ろされる杜也の副作用に、海月は固く目を閉じて。


 ――その寸前、背後で扉の開く音がした。


「……んぇ、玲於もいる。なにしてんの?」


 杜也の動きが止まって。のんびりと間延びした、緊張感の欠片も無い高めの男声に張り詰めた部屋の空気が温む。そっと目を開いて。


 りんと同じくらいか。あるいはそれ以上か。入ってきたのは日本人離れした長身の男。言語化し難い瞳の色と、唯葉ゆいはと似た系統の整った小さな顔。甘ったるい声色と見た目が素直に結びつかないアンバランスな威圧感。


 その幼げなタレ目が、ころりと海月を向いた。


「……猟犬じゃん」

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