第二十夜 日陰に開花

「新しい友達か?紗世さよ


 大人の香をまとう低い男声。蒼樹そうじゅと同じくらいの背丈に、清潔感のあるひげ。馴染みのいいサングラスの奥から気だるそうな垂れ目がこちらを見ていた。


えい……」


 紗世がそう小さく呟く。心做こころなしか、その表情は少し暗く曇っていて。ゆっくりと後退あとずさり、隣の未遥みはるにそっと耳打つ。


「……精鋭部隊の?」

「……うん。副隊長だ。なんでここに……」


 傭兵ようへい所属さかき叡士郎えいしろう。身にまとう圧の希薄きはくさが、かえって触れてはいけないような雰囲気を醸し出している。彼は二人に視線を移すとくわえていた煙草たばこを握り、にこやかに手をひらりと振る。彼の副作用により、手中で粒子化した吸殻すいがらが空中に溶けた。


「なんだ、そんな緊張して。別に今お前らと喧嘩するつもりはないよ。――海月かづきと未遥だろ?『墓守はかもり』の。俺は『浮浪兵ふろうへい』の叡士郎。よろしくな」


 直前の煙草の匂いが近付いて。握手を求める彼の分厚く骨張った手。正直、悪意は微塵みじんも感じない。ちらと未遥を目配せをし恐る恐る掴むと、ぐいと腕を引かれた。突然の動きに抵抗は封じられて。煙草の煙たさを覆い隠すような色っぽい大人の男の香水が触れる耳元。身を引く間もなく、叡士郎は静かに口を開いた。


「お前ら、紗世のことそっち引き込む気だな?」

「――っ、!」

「ッハハハ、そうか」


 咄嗟とっさに身構えて。意外にも、叡士郎はただ楽しそうに笑ってそばを離れた。変わらぬ飄々ひょうひょうとした雰囲気のままで、傭兵特有のその威圧感の欠片かけらもなく。


「そうビビんなって。……俺は止めない。きっと、お前らが正しいからな。けど、お前らの味方もしない。俺が愛しているのはいつだってだ」


 叡士郎は紗世に目を向ける。笑みを崩さず、我が子を見るような優しい表情。


「紗世、こいつらと何してたんだ。俺には内緒か?」

「……なにも」

「そぉか。ま、自殺だけは止めておけよ。雨音あまねだって心配はすんだから」

「――、」


 紗世の反応に、叡士郎はやっぱりな、と笑う。


「大丈夫、言いつけたりなんざしないよ。けど、心配すんのはホントな。じゃなけりゃ俺だってお前を探しにわざわざこんなとこまで来ない。分かったら帰るぞ」

「……」


 紗世がわずかに顔を歪めた。言葉がつっかえているように、苦しそうに俯いて。心配を貼り付けたような表情で叡士郎は歩み寄る。


「……待っ……て」


 たどたどしく、まるで言葉を初めて使う赤子のように。


「――ちゃんと、帰る。帰る、から。まだ……」


 乾いた笑い声が張り詰める緊張を揺るがした。全てを察した上でそれを楽しむような強者の笑い。


「……まだ、なんだ?──いいか、紗世。はこういうことだぞ」


 流れるように、叡士郎の指が未遥の胸に触れる。数分前の吸殻が脳裏によぎって。殺気はない。だがそのサングラスの奥、確実に仕留めようとする猛獣の眼が。海月は圧の希薄さに立ち尽くした未遥の腕を引こうと手を伸ばす。


 ──より早く、紗世の振るった小刀が叡士郎の腕を切り裂いた。


 目に見えないような抜刀。容赦なく投げ出された赤黒い鮮血が、やけにゆっくりと線を引いて。その景色に呆然とする。紗世は深く息を吸い込んだ。


「二人は何も悪くないから。……手は出さないで」


 びたびたと血の滴る音に、ほう、と叡士郎は目を細める。特に痛がる様子もなく、彼はただ他人事のように腕からの流血を眺めて。


になりたいか、それでも」

「…………」


 見透かすような、隠す気のないため息。首筋を掻き、叡士郎はさとすように落ち着いた口調で言った。


「分かってるから、そう煮え切らないんだろうけどさ。お前は一度傭兵として生きたんだ。こっちで行使こうしした正義は、そっちじゃ悪だよ。どっちにしたって裏切り者だ」

「…………うん」

「――お前は強いよ。……強くなった。雨音についてたからだな。けどな紗世。雨音は別に、死屍守を殺すために力を使ってるわけじゃない。そんなのはついでだ。雨音がお前に教えたのも同じ。俺が言いたいことは分かるな?」


 紗世は小さく頷く。震えを抑え込むように、彼女は叡士郎をきつく睨みながら口を開いた。


「分かってる。でも、私は自分の正義に……正直になりたい」


 感情の読めない表情のまま、叡士郎は固まって。紗世は続けた。


「私の裏切りが、許されるなんて思ってない。……自分でしたことの責任はとる」

「――そうか。……俺はお前を家族同然に愛してる。けど俺は……いや、はいつでも雨音側につくよ」


 静かに、紗世は叡士郎を見据えた。


「うん。…………どんな罰だって受ける。その覚悟は、できてるつもり。だから……叡、お願い。私に、少しでいいから時間をちょうだい」


 真っ直ぐに、紗世の目が叡士郎を射抜いて。彼はすっきりした顎を撫でながら、置いていかれていた海月と未遥へ目を向けた。


「――海月、お前はよくわかってるだろうけど、紗世は人の殺し方を熟知じゅくちしてる。が叩き込んだんだからな。未遥も、まぁ今見た通りだ。……そんな紗世を『墓守』に連れて帰るリスクは、理解してるんだろうな」


 海月は未遥と目を合わせる。未遥の、覚悟は出来てる、とでも言いたげな真面目な表情に破顔。


 叡士郎に向き直り、海月は軽薄けいはくな態度でへらりと言い放つ。


「……リスクとか、割とどうでもいいかも。そりゃあ刺されたのはめっちゃ痛かったけど。僕は紗世ちゃんが居たらこの地獄も楽しくなりそうだなって、そんだけ」


 ぽかんと、叡士郎は口を開けたまま固まって。そして、決壊したように吹き出した。


「お前……ッ、ははっ!とんでもねぇな」

「そう?男ばっかで退屈してたし。リスクとか知るかっての」

「……マジか、お前」


 ゲッ、と未遥までも頬を引きらせて。海月の言葉にくつくつと小刻みに震える叡士郎の肩を挑発的に見返す。一頻ひとしきり笑って、彼はどこか安心したように息を吐いた。


「――はぁ……わかったよ」


 そう言うと、叡士郎は気だるげに身をひるがえして。恐る恐る彼を見上げる紗世に苦笑を返す。


「……言い訳はしといてやる。けど、そう長くは持たせらんねぇからな。雨音にだって、責任があんだから。あとは自分でどうにかしろ」

「――っ、うん」


 彼の去り際。とん、と肩が触れ合った。


「悪いな。試すような真似して。……年頃の女の子の対応は得意じゃないんだ。当主辺りからも依頼されてるだろうが、俺からも頼むよ。紗世は……本質的に傭兵にはなれない」



 再び降りた静寂せいじゃく。ふと、未遥のポケットでスマートフォンが震えた。


「……ん?――やっ、ば!」


 顔を青くし慌てて応答する未遥に、海月は瞬時にその意味を悟る。


 そっと、自身のポケットを確認。睡眠モードに設定されたその液晶が冷たい熱を帯びて起動する。時計は朝七時を示していた。加えて。通知欄には大量の蒼樹からの未読メッセージ。


「……紗世ちゃん」


 スマートフォンをしまい、小声で彼女の名を呼ぶ。美しい熨斗目のしめ色が、朝日を受けて輝く。


「にげよ。未遥にしばかれる」


 紗世の手を引き、海月は非常階段へ走る。背中に怒号が投げつけられ、清々しい朝涼あさすずに堪えきれない高笑いが響いた。


 *


 上品な香りとからんと木のドアベルの音。朝も健在の薄暗さにアンティーク調の落ち着いた雰囲気。既に聞きなれたジャズとともに、安堵あんどの入り交じった憂憤ゆうふんが迎える。


「おかえり、問題児ども」


 定位置からかけられたハスキーボイス。誤魔化すように返事をし、かすめて行った珈琲コーヒー芳醇ほうじゅんな香りに鼻をひくつかせた。彼女の隣に並ぶように、見知った、それでいて珍しい背中が二つ。


 海月の脇から警戒する小動物のように紗世は顔を出す。ばち、とと目が合って、彼女をとらえたらしい彼は背の高い椅子から転げ落ちるように駆け寄った。


「お嬢ぉぉぉおおおッ!」


 彼――志織しおりは勢いを殺さないまま小柄な紗世の身体を抱き寄せる。すっぽりとその筋肉へ埋もれた紗世は少し苦しそうに志織の背を撫でた。


「このおバカ!っどんだけ……心配したと……っ」


 その声は怒りに、安堵に裏返っていて。もごもごと、紗世が謝罪するのが微かに聞こえた。


 ふと、優しく悪意を感じさせない嘲笑ちょうしょうがかけられる。


「志織、話が違うじゃないか。あれほど張り切って、『説教だ!』なんて言ってたのに」


 蒼樹の隣。席のひとつ空いたその奥で逸世はやせがそう言った。解けていた紗世の表情に、薄く緊張が戻ったようで。逸世は紗世の元へ歩み寄ると、眉を下げ、どこか遠慮がちに柔らかな微笑みを向けた。


「お久しぶりですね、紗世」






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