第十九夜 泥中の姫
「どこ行くんだよ?」
「映画行こ、映画!」
勢いで決まった一件目。客も
*鑑賞中*
「――色々濃かったな。なんだよ、人語話す鯨って。しかもおネエ口調」
「僕、ずっとタイトル読めてなかった。
「……感動した」
「……ごめん、どの辺で?」
余韻に浸る感想発表。詳細もろくに見ずに飛び入ったマイナー映画の。残ったポップコーンをつまみながら各々素直な感想を吐き出す。
映画館を後にし、漏れ出す白い光に虫が群がる深夜のコンビニへ入る。カゴいっぱいに詰め込まれた菓子とスイーツ。幸せな重量感のそれに炭酸飲料を三本追加し、
「あとはアイスだな。紗世ちゃん、好きなの選んでいーよ」
「……こ、こんなに……」
「ったり前でしょ、夜は長いんだから」
さすが箱入りと言おうか、背徳感との葛藤が残っているようで。中身は普通の少女だと安堵する。
背後から
「お前、財布は」
「持ってきてるわけないでしょ」
「チッ」
目の前の菓子パンを追加しながら睨め上げてくる彼に頬が緩んだ。
「しばらく外メシ、全部お前持ちな」
「わーってるって」
三日は持ちそうな量のコンビニフードをレジへ出して。コンビニでは滅多にお目にかかれない金額の会計を済ませたあと、両手にレジ袋をぶら下げて夜の街を
「ね、ねぇ。どこ行くの」
「んー。……カラオケでも行くか。海月、ここら辺で持ち込みおっけーなのどこだっけ」
「駅前大体いいんじゃね。空いてっかな」
人混みの層が変わり、アルコールの匂いが混じる賑やかさの中。初めての夜遊びへの戸惑いか、紗世はピッタリと二人について。完全に警戒の薄れた彼女に、海月は微笑む。
「紗世ちゃん、何歳?」
「……、十六」
「え。……じゃ、今だけ十八ね」
「悪ぃやつ」
「未遥も共犯」
年齢詐称は得意分野である。恵まれた体格と『飼い主』との生活で培った話術で受付を難なくクリア。そもそも、ドールという存在すら法から外されているようなものである。今更人間様の法律など守る義務もないだろう。
受付した三時間。流行りの歌からマイナーまで。時間をめいっぱい消費し、買い込んだ食料もそこを尽きる頃、十分前のコールが鳴った。延長は無し。
既に日付けが変わり四時間が経とうとしていた。次の目的地を話し合う二人を紗世が静かに遮る。
「……高いとこ、行きたい」
「高いとこ?」
首を傾げた二人に、紗世は頷いて。目的は不明。だが初めて声に出してくれた意思表示だ。叶えない訳にもいかないだろう。紗世に手をひかれるがまま、二人は歩みを進めた。
*
今は閉鎖されたビル。高所に吹く風は、夏といえど涼しく
「こんなとこでいいの?」
「うん」
背中にかけられる海月の声にそう返して。こんなとこ、と海月は言ったが紗世は満足だった。
短く結った黒髪を
「……私のこと、どこまで知ってるの」
酷く真剣な表情で。未遥と目を合わせ、言葉を選びながら丁寧に並べる。
「――全部詳しくは知らないけど。家出してること、傭兵にいること、ゲンガーの純血で生まれたドールってことくらい……合ってる?」
紗世が頷く。かなり心を開いてくれたようだった。ささやかな夜景を眺めながら、彼女は静かに語り始めた。
「私はゲンガーの純血。これは紛れもない事実。……けど、母様が逝ってしまって、その時に、自覚症状が出たの」
「っじゃあ、変な実験とかは、されてないってことか?」
「実験……?」
安心したように息をつく未遥を不思議そうに見つめて。
「
その名前にピンとくる。
「……拾ってくれたのは
「それが、家出の理由?」
「うん」
「帰んねぇの」
「……私は傭兵の仕事に関わった。今更帰れないし、帰ろうとも思えないの」
紗世が顔を背ける。表情が陰り感情は読めない。
「海月、未遥。……ありがとう。こんなに楽しかったの初めて」
言い切って。次に紗世は寄りかかっていた落下防止のパラペットを飛び越えた。固まる海月をよそに未遥が怒鳴る。
あるかないかの狭いスペース。風を受けるように、紗世は真っ直ぐに立っていた。駆け寄ろうとする未遥を腕で制す。
「……飛ぶの?」
気付けばそう聞いていた。心配も
ゆっくりと、熨斗目色がこちらを向いた。刺すような視線は警戒を強め、その
「……一人にして」
もう彼女を止めることは出来ないと、何故かはっきり理解できた。薄っぺらな正義感では、余計に彼女を追い詰める。
「……わかった」
焦る未遥の手を引き彼女に背を向けた。他人の心の内なんて、知る
掴んでいた腕を振り払われて、海月は未遥を振り返った。
「海月、待てってば。どうすんだよ?なんのつもり……」
「死ぬのって、勇気がいるんだ。それを選択できる紗世ちゃんは強い」
「――っそうかもだけどさ、それとこれとは別だろって。止めなきゃ」
未遥を引き
「……十六、だっけ」
「んぇ……紗世?言ってたけど。それがなんだよ」
熟考。自分の行動も間違っていると思えない。自分ならこうして欲しいから。彼女の目に迷いはなかった。だから彼女の意思を、決定を揺るがせるのは。同じ二番目として。だが未遥は。兄としての
〝兄〟からの否定では、きっと彼女を余計追い詰めてしまう。だからこれは、海月にしか出来ない誘い。
「妹みたいだって、やっぱ思う?」
「は……まあ、重ねて見るとこはあるよ」
「だよね。……、……わかった。ごめん未遥、ちょっと待ってて」
「な、今度はなんだよ」
「気ぃ変わったの。大人しくしててね」
早口で断りを入れ、海月は一人紗世の元へ戻った。
*
紗世のそば。白塗りの
「……なに」
「ほんとに、飛ぶ?」
ぼんやりと言葉をこぼす。正しい声掛けなど、海月が分かるわけもなかった。だからあくまで世間話の続きを。教室の中のような、あるいは登下校中のような、そんな、
「最初から決めてたの。迷惑かけるのは、これで最後にしたい」
「怖くない?」
「……。でも、これで終わりって思ったら楽になるから」
「そっかぁ」
遠くを眺めた。相変わらず、人の生きるヨコハマは地獄を知らず美しい。独り言のように、海月は口を開いた。
「――僕ね、最近結構忙しくてさ。未遥とルームシェア?してんだけど、それもあって結構
「…………何の話?」
目が合った。近付くとはっきり分かる、意外にも低い身長。もう少し高い方が好みだな、と、少し思った。
「一回抱かせてよ」
「……は?」
良かった。意味は知っている様子。そこまで箱入りだったらどうしようかと。
紗世の反応は正常だ。突拍子もなく、最低なことを言っている自覚はある。ただ、それを踏まえての申し出。
「どーせだったらさ。死んじゃう前に一回だけ。僕はまだ紗世ちゃんのことよく知らないし、君が死んだところでなんとも思えないんだろうけど。顔は好みなんだ。だからもったいないなって」
「……――最ッ低」
「そうかも。けど男なんて大体こうだよ」
きろりと
「嘘つき。あなたみたいな人は初めて会った」
「ふぅん。じゃあ学んだね。悪い男には気をつけんだよ」
一言断り、紗世の身体を持ち上げて。先入観もあったが、彼女は小さくて、
「……もったいないって、結構本気。信じてもらえないかもだけど、一旦下心とか関係なく。……話聞くだけならできるから、僕でよければ話してよ。モヤモヤ残したままで死ぬの、いやじゃない?」
沈黙。しばらくして、紗世は小さく息を吸った。
「──もう、わかんなくなっちゃった。傭兵で過ごしたことに後悔はしてない。けど、雨音の……傭兵のしてる〝正義〟になりきれない」
「傭兵の正義って?」
「主人が絶対。主人の命令が兵士の法になる。殺しなんて当たり前。そこに躊躇も疑問もない」
「……殺ったの?人」
「人に副作用を使ったのは、中華街の時が初めて。私は雨音の仕事をずっと見てた。……あの時は雨音への依頼だったのを任せられたの。元から受けてた依頼の方は、紗世には出来ないからって」
はぐらかされたような気がしたのは無視して。じく、と傷跡が疼く気配を悟らせないよう、海月は遠くを見た。
「……私、逃げてばっかり。家族からも、自分の身体からも、母様の死からも。雨音は私を拾ってくれた。傭兵の正義に救われた。だからもう傭兵として生きようって……なのに、自分の手が汚れていくのが怖くて仕方ない」
紗世の指先が小さく震える。かける言葉は見つからなかった。初めから聞くだけと言ったものの、彼女を放っておくのはどうしてもできなくて。
あまりにも、この小さな身体で受けるには重たすぎる現実だった。それを逃げと言ってしまえる、普通でいられない彼女のどうしようもない強かさが美しいとさえ。
「海月は」
「ん?」
「…………海月は、死ぬのは逃げになると思う?」
「うーん……わかんね。でもそう思っちゃうならそうなのかもね」
「もしそれで死んじゃってさ、楽になれんならいいんじゃない。けど、死ぬ理由にお母さんとか、家族を使うのが後ろめたいなら、他の理由探したら?まだ時間もあるでしょ」
小さく、息を飲む音がして。しばらくして、
「ほら、帰ろっか」
「――ッ、どこに……」
「え?蒼樹さん、朝までには帰れって言ってたじゃん。あの人、怒ったら怖いよ」
至って自然に。そう笑いかけると、紗世は俯いた。ぱた、と地面に水滴が落ちる。しゃくり上げるような呼吸にぎょっとした。
「……え。――未遥!やべ、どうしよ、タオル!」
「はあ?……えっ!おま何言ったんだよクズ!」
素直に待たされていた未遥が慌てて駆け寄って。我慢するほど溢れ出る涙に紗世は困惑している。
「──いこっか」
しばらくして、目元を赤く腫らした彼女にそう手を差し出して。小さく頷いた紗世がその手を取る瞬間。
「へぇ、どこに」
硬直。気配なく現れた大人の低い男声が、
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