第十六夜 食卓、葬送。

 ヨコハマ中華街。ただよう美食の香りと、行き交う人々でにぎわう繁華街を前に海月かづきは立ち尽くした。


蒼樹そうじゅさん、あの、何しに来たの?」

「何って、観光だよ、観光」

「いや、え、依頼は?」


 似合わない真面目さの、その上ずった海月の意見に蒼樹は口をとがらせる。


「なんだ、真面目ぶるなって。大体、その子も今は傭兵ようへいにいるんじゃあ、そう簡単に会えるわけもないんだから。私は杏仁ソフトが食べたい」

「目的それじゃん」


 目当ての甘味を求め進む蒼樹を追って。とん、と真実まさねが肩をぶつけた。オリーブ色の片目が悪戯いたずらっぽく覗き込む。


「ふかひれ食べようよ。今日蒼樹さんの奢りだって」

「まじ!やりぃ」


「奢り」という言葉の前では、海月のプライドは仕事をしない。珍しく真面目モードだった海月の頭は容易く観光モードに切り替わって。扱いやすさ云々うんぬんは、海月も大概たいがいだ。


「調子いいなぁ……。杏仁が先だぜ」



 とろりとしたスープにおこげを浸して。少し待った方が美味しいと、蒼樹に言われ生まれた幸せな待機時間。目の前で熱そうに念願のフカヒレまんを頬張る真実を見つめる。


「……痛くないの?」

「なにが?」


 食事故、無防備にさらされた彼のマスクの下。片側の裂けた口に痛々しい縫合痕ほうごうこんの残った。ああ、と納得したように真実は残りを全て咀嚼そしゃくし飲み込んだ。


「感覚ないから、大丈夫だよ。六年くらい前かな。『墓守はかもり』入る前に死屍守に襲われてさ。目も無いんだ」


 ほら、と平然とそこを隠していた前髪をかき上げてみせて。口元と同じような赤黒い縫合痕ほうごうこん眼瞼まぶたをしっかり塞いでいる。


「さすがにそん時は痛かったけど。これきっかけで自覚症状も出たし、『墓守』にも出会えた。おれは結果良かったです」

「そっか。ならよかった」

「ありがとう。むしろごめんね。ご飯中にグロくて」

「――いや、僕死屍守食うし」

「そのカード強ぇー」


 嘘はない。初めて口にした、その名も知らなかった美食の味。スープの染み込んだおこげはもちもちと、しっかり美味であった。


 *


 愛らしいパンダを躊躇ちゅうちょなくかじって。ずっしりとした蒸したての、白い湯気ゆげを立てるそれは程よく甘い。


「ねぇ、まじで目的あんにん?だけなの?」

「そんなわけあるかい。ここらの区画には『浮浪兵ふろうへい』の拠点がある。夜にでもなって死屍守が出現すれば、噂のその子に会えるかもってね。パトロールも兼ねてんだよ」


 通算四つ目の胡麻団子を頬張りながら蒼樹は得意げに薄い胸を反らした。


「まぁ、観光が一番の目的って言っても間違ってないんだけどさ。私は君らみたいに直接戦場に出る役じゃないし、こんな機会滅多にないからな。ただでさえ何があるか分からない生活なんだ。お互いに」


 物憂ものうげに、どこか寂しそうな表情をしていて。まだ突っ込むべきではないと、海月は無知のふりをした。


「……確かに。副作用戦闘向きじゃないね」


 蒼樹の副作用。それは怪我を紙の人形に移す荒治療だ。事実までは消せないため治療痕は残るが、傷口は塞がり出血も瞬時に止まる上、治療による拘束期間も短縮される。


 彼女曰く、物理的な〝痛いの痛いの飛んでいけ〟。


「戦えなくもないけどな。お前らの怪我を死屍守に移せば」

物騒ぶっそう

「実際、蒼樹さん急所突くの上手いからなぁ」

「そりゃあ。私は医者だぞ?人間の急所なんて知り尽くしてるに決まってるじゃないか。──まぁ、その時まで仲良くしてよ。燈莉とうりにだけ懐かれてもけるからな」


 海月は調子よく蒼樹の顔を覗き込む。


「僕蒼樹さん好きだよ。奢ってくれるし」

「ちょろ」

「なはは。りんは?君アイツ苦手だろ」

「初対面で締めてきたしなぁ」

「ははっ、だろぉな!でも仲良くしたってよ。良い奴だからさ」


 再び散策に戻って。 商店街のそのど真ん中。不自然な人集ひとだかりと、大人の男の怒鳴り声。


「……なんだ?」

「喧嘩だろ。全く、さすがの治安の悪さだな。行こう」


 海月は蒼樹に続き無視を決め込み素通りした。ちら、と視界に入った、大の大人の取っ組み合い。それを助けようとする素振りも見せず、ただ手に持った〝目〟で撮影するその他大勢の、また大人。


 およそ十年前。戦争が終わってから、街の治安は低い水準を辿たどって。かつて『飼い主』と住んでいた街でも、こういった野蛮やばんな争いは絶えなかった。人間同士の、ゲンガーとドールの、その亀裂きれつに。死屍守という愚かな死人の存在に。


 戦後もたらされたものは、戦時中より余程不安定な名ばかりの平和であった。葬儀屋の目指す共生からは、遠ざかるばかりのように思える。


 過ぎ去って、その時、遠くなった喧騒けんそうをかき消さんばかりの甲高い悲鳴が背にぶつけられた。発生源は、先程の人集ひとだかり。ただし、様子がおかしい。蹴散らされた蜘蛛の子のようにその中心から逃げ惑う傍観者ぼうかんしゃ


「……くっそ、まだ昼間だってのに!」


 蒼樹が駆け出す。少し遅れて、真実と後を追って。


「なにごと?死屍守?」

「うん。多分、んだ。仕事だよ、海月君」


 まばらに残る野次馬どもに蒼樹は避難をうながし怒鳴る。その背後で、死屍守と化した元人間に襲われる男。先程の、取っ組み合いの当事者だろう。真実は死屍守を引き剥がし強引に路地の暗がりへ連れ込む。


 残され、海月は放心する男の傍へしゃがみ込んだ。情けなく涙を浮かべた細い目が、すがるように海月を見つめている。さらされた腕の刺青いれずみは、かえって彼の威厳いげんを弱体させて。いけ好かない香水の香りと、の匂いが混ざりあった、この男がどのような人物なのか、話さずとも伝わってくるしょうもなさ。


「た、たすけ、たすけてくれ、いたい」

「……確かに。痛そー」


 そう押さえた首元は、かじられたように血で染まっていて。だが無関心に、海月はそう答える。それ以外の情は湧かなかった。見知らぬ人間。あれほど元気に暴れていた、人へ迷惑をかけるのを、それをカッコイイと履き違えた間抜まぬけな男。


「蒼樹さん、この人どうする?たりしない?」

「……うん……、怪しいな。人目のないとこ行ってこい。こっちの処理は私に任せろ。彼には悪いが、私の副作用はゲンガーは専門外なんだ。今は……どうすることも出来ない。念の為、お前も顔隠しとけよ」

「うぃ」


 男を担ぎ、真実の元へ向かう。人気のない路地裏、既に死塵しじんが舞っていた。伏せられていた目が向けられる。


「仕事早ぁ」

「その人は?」

って蒼樹さんが」

「そう」


 男はみっともなく身体を震わして。恐怖故か、制御が効かなくなった股間が濡れている。


「たすけて、くれ!しにたくない!」

「落ち着いてよ。お兄さんに拒否権ないと思うし」

「や、いやだ、しにたくない!」


 らちが明かない。ふぅ、と海月はため息をついた。一言断りを入れ、男の腕を掴む。よれた袖を捲って、その前腕に薄く赤黒い注射痕を認める。


「おにーさん、やっぱ薬やってるでしょ」

「――ッ」

「ビビんないでよ。別に、僕警察でもなんでもないから。でもさっき動画撮られてたよね。多分、放っといたら化け物になっちゃうし、ならなくてもいずれバレるもんバレるだろうし。ろくなことないんじゃね?……どうする?今ならカワイソーな人のまま死ねると思うけど」


 はくはくと、過呼吸じみた浅い呼吸音。極限なのだろう。沈黙の後、「ころして」と、掠れた声が言った。男の肩に目をやる。微かに。患部がうごめいているのが見えた気がした。


「……うん」


 ふ、と軽い貧血に頭痛を起こす。幸せな満腹感が半減。男の心臓。そこが淡く、赤く濁って見えた。もうじき男は人でなくなる。


 海月は彼の目元を手で覆い隠した。「使う?」と真実は小さなナイフを取り出して。相変わらず物騒だと、海月は笑って受け取った。


 男の胸部に、それを突き立てる。ずぶ、と肉の感触が遠く伝わって。苦痛が呻き声となって漏れる。男は抵抗しなかった。ただうつろに、よがれを垂らしたままで放心。肉を引き裂き、骨を砕くと微かに動く心臓が顔を出した。ずるりとそれを引きずり出して、む。ぶにぶにと不快な食感。なりかけの死体であるそれは、比較的まだ新鮮であった。少し悪くなったような生肉の味。腹を下しそうな味だ。杏仁とやらで口直しがしたい。


 異食。死屍守すら特別にしょくすことができて、また、死屍守だけが特別な訳では無い。食材たべもので無いもの。人の肉すら、その対象になるようだった。


 ゆっくりと、男の死体が崩壊を始めた。やはり感染していたようだ。蒼樹の判断は正解。目を伏せて、せめてもの弔いを捧ぐ。口を雑に拭い、海月はため息をついた。


「しっかし不味いなぁ。……前の死屍守より美味いけど……好みじゃない。どうにかならねぇかな」

「――味変したら?持ち歩けばいいじゃん。マヨとか」


 マヨネーズ。人類の最高傑作。取り敢えずかけておけばハズレなしの万能調味料。もしかすればアリなのかもしれない。あるいはタルタルも。──だが。それを提案するとはなかなかに。


「知ってたけど、クレイジーだね。引かないんだ?」

「引いてはいるよ。けどそれが海月君の副作用なんだろ」

「あは、惚れそう」

「遠慮しとく」


 蒼樹の姿を探し、緊張のほぐれた会話とともに通りへ出て。



 その時。突如海月の身体に鈍い衝撃が重く刺さる。


「……ッお、ぁ?」


 その正体と、目が合って。熨斗目のしめ色の、切れ長の双眸そうぼう。穴のように光の宿らないその虚ろと混ざり合う。少女。己に埋もれてしまうような、華奢きゃしゃな身体。


 その違和感を認めて、じわじわと状況を理解した。黒いシャツが、暗く染まる。腹に突き立てられたナイフ。までしっかりくい込んだ殺意。骨を開くように刃が捻られ、海月は吐血した。

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