第十夜 逮夜 ②

 黎明れいめい。バーのエレベーターが〝家〟に止まる。


 はっきりした茜色の瞳と、その下に黒々と寝不足の象徴。くあ、と猫のように欠伸あくびをし、未遥みはるは足を擦りながら〝家〟を徘徊して。共用の冷蔵庫から未開封の水を取り出しあおる。エナジードリンクによる甘い喉の乾きを押し流すように。


 白っぽく明るんだ廊下の最奥、与えられた自室の扉を体当たりで押し開ける。二日間。上司であるりんとほぼ無休であたっていた巣の破壊任務により疲労は極限に達していた。


 狭い自室。真っ直ぐ歩いてすぐベッドへ倒れ込める良心的な設計。眠気による注意力の霧散むさん。それ故に。未遥はベッドの異変に気が付かない。


「うっ」


 脳内に疑問がぼやける。今の音は?まるで人間の呻き声のような。それに。いつもより硬く生あたたかいシーツ。それは規則的にうっすら鼓動している。


 抜けない倦怠感の中重い身体を起こして、それと目が合った。垂れ気味にとぼけた鈍色の、死んだような双眸そうぼう。薄暗さの中にもそのシンメトリーな泣きぼくろがはっきり見える、そんな近距離。……見知らぬ男が、己のベッドにいる。あろう事か、己はその男の上に躊躇ちゅうちょなく倒れ込んで。


 沈黙。脳が覚醒。状況を理解。


 ――発狂。


「ひゃぁぁぁあああああ――――――ッ!!」

「バッッカうるせぇ!」


 時間を弁えない本能の叫びをもろに受け、海月かづきは突然降ってきた男の口元を覆い押し付ける。兢々きょうきょうと情けない涙目で暴れるその反応に少々焦った。


 彼は恐らく自分の同居人で。前情報によれば、その彼はまる二日の任務帰り。だから非は己にしかない。


 寝起きの頭で言い訳を考えていると、部屋の扉が開いた。騒ぎに叩き起されたのか少し不機嫌な真実まさねが入ってくる。二人の男が戯れる地獄絵図に呆れ顔だ。


「――なに、こんな朝から」

「ちょっと……ミスった」

「……壁薄いから、程々にしてよね」


 数刻後、真実の説明により漸く落ち着いた未遥は海月に凄んだ。律儀に交した自己紹介の後の、消え入りたくなるような気まずさ。


「……悪かったって。ベッド一個しかなかったし許してよ」

「布団使えよ」

「その習慣なかったんだよ」

「なんでだよ」


 もっともなツッコミ。もはや海月に返す言葉などなかった。


「……でも僕が来るのは知ってたろ?」

「知ってても初めましてでこれはないわ」


 正論が堪える。再び降りた沈黙にどけ、と軽く足でベッドを追い出されて。海月は大人しくベッドに潜り込む未遥を見守った。


「――悪ぃ、やっぱ寝かせて。死にそ」


 まるでそれを遺言のように、やがて静かな寝息が聞こえて。反対に冴え切ってしまった眠気を置いて、海月は静かに部屋を出た。



〝家〟の共用スペース。早朝のそこには既に人影があった。


「――お。おはよ、問題児」


 翠色のマグカップを手に、蒼樹そうじゅはそう笑う。臙脂えんじ色の長いウルフカットがさらりと垂れて。その眼鏡の奥から覗いた灰緑に捕まる。


「……はよざいます」

「なぁに、不服?」

「そりゃあ」


 目を逸らしながら彼女の対角へ座って。こと、と隣にカップが置かれる。嗅ぎ慣れた甘い香り。


「早起きだね、海月君」

「未遥に追い出された」

「あっはは、いいね」


 思い出して交わす朝の挨拶。今日までに起きた非日常が嘘のように、平和な日常が流れている。燈莉とうりは涼しい顔で異常な量の砂糖を溶かしこんだ珈琲コーヒーに口をつけて。


「……そういやさ、僕を制御する術って何?」


 逸世はやせに向かって意気揚々と言い放った言葉。燈莉に限ってただの言い逃れなわけがない。あぁ、と彼はわざとらしく目を丸くした。


「単純だよ。僕の副作用で君に首輪をつける」

「……え、」

「言っただろう?僕は僕が愛したものを支配できる。その応用さ。これで一時的に君を支配して、異食の力が暴走しないように制御する、単純だろ?」

「じゃなくて――愛せんの?僕のこと」


 その言葉に、燈莉は俯瞰ふかんしたように微笑んだ。


「なぁんだ、そんなこと?」


 心臓が跳ねる。大人の色気をにじませる、性別の壁など容易たやす超越ちょうえつする妖艶ようえんさ。ぞく、と理由の分からない、冷たい汗が背中を伝っていく。


「安心したまえ、実証済みだ」

「……は、あ……?」


 隠す気のない、大きなため息。


「――ステイだ。まだ明るい」


 蒼樹は酒のようにカップの珈琲コーヒーあおった。いつの間にか、嘘のような無邪気さに戻った笑顔で、燈莉は嬉しそうに珈琲入りの砂糖に意識を戻して。その揺るがない上品さ。彼の〝本業〟が嘘ではない、それが確固たる証拠だった。


 *


 死屍守は予告なく動き出す。喧騒けんそうに包まれる夜、人工の明かりに群がるのように、人の尊厳そんげんの上で繰り広げる無慈悲な狂騒きょうそう。日常を過ごしていた『墓守』の〝家〟に、『廻命亭かいめいてい』からの要請が届く。


 廃病院にて対象出現。詳細情報、【王】不在により、巣 無し ゲンガーへの被害 未だ無し

 葬儀担当者 有栖川ありすがわ未遥 不破ふわ海月 以上二名。

 特殊指令 対象者の副作用の使用を禁ずる。 対象:不破海月


 カシュ、と缶の開く小さな音が鳴り響く。ショート缶タイプのエナジードリンクを喉へ流し込みながら未遥は怪訝けげんな表情で首を傾げた。


「海月お前、何やらかした?副作用禁止って、相当だろ」

「……さあ……うーん、色々?」

「マジかお前――ま、いっか、今日は軽めだし」


 部屋の扉がノックされ、入ってきたのは燈莉だった。脇に大きな荷物を抱えている。


「やぁ二人とも。準備できたかい」

「うん。……それは?」

「海月君の認識票ドッグタグと仮の義手だよ。ついさっき届いたんだ」


 手渡された箱を開けると金属製の左腕が横たわっていて。燈莉は手際よく海月の左へ義手を装着した。


 試しに幻肢げんしを握るようイメージすると、小さな遅れとともに機械がそれに沿って動き出す。


「すげ……うごく」

「ふふ、腕がないと不便だろう?まだ海月君用に調整してないから、帰りに『廻命亭』に寄っておいで。穂村ほむらさんが調整してくれるって。八重桜やえざくら家の職人だ」


 さて、と燈莉は二人の顔をまじまじと見つめる。


「海月君、今朝言ったことは覚えてるね?」

「……あぁ、制御の話?燈莉さんが副作用でなんかするって。でも今日使わねぇよ?副作用」

「使わないからこそだよ。急に本番はリスキーだろう?」


 確かに、と海月の納得に燈莉は微笑んだ。


「――制御を正確かつ効率的にするには、僕が海月君の傍についているのが一番だ。……けど、残念ながら僕は海月君のバディにはなれない。僕には最高の相棒がいるからね。だから、この役目はバディに譲らないとだ」

「それって……まさか、未遥に」


 その通り、と燈莉は指を鳴らした。


「未遥君に、君の新しい『飼い主』になってもらう」

「――待ってなんの話」


 一人放心していた未遥が帰ってくる。妥当だとうな反応にきょうじ、燈莉はひとつ咳払いをしてみせた。


「海月君の副作用はちょっと特殊でね。まだ自分で制御するのが難しいんだ。だから僕の副作用で彼を支配することにした。未遥君には、僕の代わりに海月君の『飼い主』になってほしい」

「かいぬし……?どういう……」

「詳しい説明は後で海月君が教えてくれる。今話すには時間が足りないからね」


 頭がひとつの疑問を宿し、海月はふやけた声で問うた。


「燈莉さんじゃなくても使えるの?その副作用」

「まさか。ただ肩代わりしてもらうだけさ。媒介ばいかいの方が近いかな。僕の記憶が正しければ、未遥君はお兄ちゃんだよね」

「……あぁ、妹、いるけど」

「なら無問題モーマンタイ。――じゃ、やるよ、時間は有限だ」


 流れるように、その深い青に視線を絡め取られて。気付いた時には相手の吐息がかかる位置まで近寄っている。腹立たしい程の秀麗しゅうれいさに身体は動きを忘れた。


 油断に力は抜けていて、気がついた時にはベッドへ身体が仰向けに倒されていた。余裕そうに笑い見下ろす燈莉がしゃくさわるが、頭に抵抗の文字はなく。あの上品さが、今は酷く狂気的で、ただ不気味だった。


 その時、首に薄い体温が触れ、ゆっくりと重たく圧がかかった。


 空気が遮断。


「――か、ッ」


 細い指がくい込み首を絞められる。苦しい。必死に酸素を求めてあえぐ。


 未遥が、我に返ったように怒鳴ったのが聞こえた。彼は燈莉を引き剥がそうと肩に掴みかかる。


 落ちる。それだけがようやく脳にチラついた頃、首の拘束が緩んだ。酸素が気道を流れ思考が正常に戻る。


 途端、海月は燈莉を力任せに突き飛ばした。激しく咳き込みながら霞んだ視界で彼を睨みつけて。


「なに……すんだ」

「ははっ、そんな顔するなよ。僕なりの愛情表現だ」


 その笑顔は崩さず、燈莉は未遥を振り向いた。怯えたように固まった未遥の肩が跳ねる。


 二人の手が微かに触れ合う。腰の引けた未遥の手を、燈莉は楽しそうに握って。悪意の欠片もない純粋な握手。それ以上何もせず、彼は部屋の扉へ向かいノブへ手をかけた。


「これでいいはずだ。さあ、行ってらっしゃい」


 嵐のように、燈莉はそう言い残して部屋を出ていって。その言葉を理解するまで、二人は一歩も動けなかった。

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