第七夜 ドールの飼い犬
カウンターの奥、三畳ほどの個室に秒針の音だけがささやかに響く。
「――要らない?」
バーテンダーは海月の前に置いたカップを見て呟く。思い出したようにカップを持つと、彼は
「ねえ、」
「ん?」
「話ってなに?」
「……ぼくは、まずは自己紹介からが礼儀だと思う」
正論だ。だが少しムッとして。
「
「知ってるよ」
「………」
なんだ、この人は。
「悪かったよ、そんな顔はするな。ぼくは
「……合法?」
「一応言っておくが、ぼくは海月よりずっと歳上だ」
「えぇ……」
困惑。見た目だけを率直に言えば、小学生程の背丈に話さなければもはや
「海月の言いたいことは分かってる。後でちゃんと答えてあげるから、まずはぼくの質問に答えてよ」
「……いいよ」
「良い子だね。じゃあ――燈莉の言ったことは、全て事実か?」
嫌な汗が背中を伝った。頷くと美弥乃は困ったように眉をひそめる。
「
「知らない」
「ふむ……なるほど、ドールの知識は薄いみたいだね。今まではゲンガーとして生きてたってわけだ」
「うん。その方が楽だったんだ。戦いたくなんてなかったし、ドールってだけで嫌な顔する奴も居たから」
「……そうだね。まあゲンガーからすれば、ドールも死屍守も同じようなものだ。過去の影響でゲンガーの潜在意識に、ドールは危険だ、っていうのがあるから。仕方ない」
君の番だ、とでも言うように美弥乃は腕を組み目を伏せた。
「美弥乃さん女装癖?」
「──とんでもないな、お前」
美弥乃は眼球が溢れ出そうな程大きく目を見開いた。理性的に落ち着いていた低音が上ずる反応の良さに少し楽しくなる。ふやけた空気感をリセットするように美弥乃はひとつ咳払いした。
「見た目のことを聞きたいのは分かるが、言葉選びには気をつけなさい。――これはぼくの副作用の代償だ。燈莉には縛りと言われたかもしれないけれど」
「……女装しないと使えないってこと?」
「このアホが――、……ぼくの話は一旦やめだ。お前、他に聞かなきゃならないこと山ほどあるはずでしょ」
熟考。今の海月にとっては、堅苦しく難しい話よりも目の前の人間の方が興味の対象だった。ただ、さすがに言い出せないシリアスさに言葉を飲み込む。
「葬儀屋って燈莉さんに言われた。ここ、なんか関係あるの?」
それだよ、と美弥乃は安堵の色を浮かべて頷いた。
「葬儀屋――『
「葬、送……」
「あぁ。あまり使いたくない表現だけど……
「んー、殺しが救済――ってこと?なんつーか、漫画みたいだね」
「はは、いい感性だ。――けどね、まだドールをよく思ってない
私人逮捕。その単語にひっそり
「――だからね、ぼくは葬儀屋の総支配人に申請して、所属するドールが葬儀の際、導師として自由に動けるように軍を作ったんだ。それがここ、葬儀屋の
以上、と美弥乃が細く息をついて。彼は軽く身を乗り出して問う。
「それで……海月は何のためにここに来たの?わざわざゲンガーとして生きる平穏を蹴ってまでここにいるってことは、相当の理由があるんだろ」
「……姉さんを探しに」
ピク、と美弥乃の片眉が動いたのを、海月は見逃さなかった。顎に手を当て、美弥乃はブツブツと呟く。
「――なるほどね。戦争で別れたの?」
「……あいつ、戦場に行ったんだ。正直、生きてるかも分からないし、顔も声も覚えてない。けど、理由を知らないまま死ねなかった」
そうか。とだけ美弥乃は言って黙ってしまった。壁掛け時計の規則的な秒針の音が、不規則に己の心音と混ざり合って。酷く長い沈黙だった。耳がおかしくなったようにキンと鳴る。
「――確かに、生死は問わずともここならお姉さんを探せるだろう。だがその前に、海月には
「葬儀屋にはいくつか
ふと。ぱたた、と水分が机に落ちた音が聞こえた。続けて頭に血液が集中するような圧迫感。自覚した途端、身体が冷えていく。冷や汗ととも机に落ちた己の鼻血を
「さすが、死屍守も食える身体だ。普通のじゃ効かないよね」
「なに、した、?」
「ちょっとね。大丈夫、死にはしないさ。……副作用はね、死屍守だけ特別に作用するものじゃない。ゲンガーにも、ドールにも、使い方によればその持ち主すら殺せる危険な力だ。始まりの話は知ってるか?ゲンガーとドールの関係に
美弥乃の目は
*
――その昔、突如現れた
それを人々は『
ある日、その地獄に一筋の光が差した。死屍毒を克服する者が現れたのだ。死屍毒を無効化する奇跡の抗体を持った人間。その抗体は人体に感染した死屍毒を支配し、それを活性させ異能として使用することを可能にした。
異能は抗体の副作用とされ、人は抗体を持った人間を
彼ら神使が英雄と
ある神使達が、集団で原因不明の暴走を起こした。理性をなくした彼らは副作用を用いてゲンガーを襲ったのだ。
その場に居合わせていた別の神使達により、彼らは始末された。だが、神使という、神に認められた力を宿した強者が、本来守る対象である弱者を虐殺したこの事件は、ゲンガーが神使を敵と認識するのに十分な理由になった。
この暴走を引き金に、他の神使達にも不信感を抱く者が増え、彼らは神使を奇病の感染者、
それを火種に神使とゲンガーは対立し、再び世界を地獄に塗り替えてしまった。その名残は今もなお、完全に消えることなく、人類は静かな争いを繰り返している。
かつてあった、永遠の平和を求めて。
*
美弥乃は
ドールとは、元は差別用語である。今でこそ、その意識は薄れてきたものの、当時では存在すら許されずに無条件で拘束された。
盛られたものの作用か、視界が
「破ってはいけない
「だから僕を、?」
「海月はまだ葬儀屋の人間じゃないだろ。お前はただの死屍守と同じ殺処分対象だ。……まあ結果は変わらないか。ただ、今回言ってる裏切り者は燈莉のことだ」
「っ、どういうこと。燈莉さんは――」
「暴走に加担することだって共犯だ。分かるだろ。掟を知っていながら違反を選んだ。これが裏切りじゃないってんなら他に何になるって?」
ギリ、と欠けるほど噛み締めた歯が鳴った。美弥乃の言葉は正論でしかない。顔に伸びた美弥乃の小さな手にきつく目を閉じる。
「ねぇ海月、君に選択肢をあげるよ」
その手に顔が
「燈莉の共犯者としてここで生きるか、このまま死屍守として死んで全てなかったことにするか。どっちか選んで」
「……は、?」
目の前の人間が何を言っているのか理解できなかった。構わず、美弥乃は淡々と続ける。
「海月は暴走の前科があるから、どっちにしろ処分を受けなきゃなんない。
「――僕に、燈莉さんを
「随分、語気が鋭角だね。まあどう解釈しても構わない」
その言葉に、野性的な笑いで返す。未だ痺れの残る片腕で、それより何倍も細い手首を掴み引き剥がして。表情を崩さない冷静さで、美弥乃は海月を眺めていた。
「嫌だね。確かに燈莉さんには借りがある。けど、先に僕を拾ったのもそっちだろ」
飼い主なき迷い犬を拾ったからには。海月は元飼い犬だ。人の顔色を見る力は、普通の人間のそれよりも
「美弥乃さん、僕のことも殺す気ないよね。本気でそのつもりならいつだってできたはずだもん」
「……共犯者を選ぶんだね?」
「あの人のことよく知ってるわけじゃないけど。燈莉さんはこっちのが好きだと思ってさ。――この副作用は使いこなしてみせる。だから僕のこと飼い慣らしてよ」
その言葉に美弥乃はくつくつと笑った。
「合格だ、この猛犬め」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます