第六夜 異食の子

 海月かづきの声に、燈莉とうりは目を見開く。


 地面を蹴る音。海月は一気に死屍守との距離を詰め返した。対応しきれぬ間に海月の振り下ろした腕が死屍守に突き刺さる。骨が折られる音を鈍く響かせながら、海月は死屍守を喰らった。肉の再生は追いつかず、一方的になった過剰かじょうな暴力が死屍守を襲う。


 やがて海月の手が乱暴に死屍守のを掴んだ。身体から引きずり出されたそれはまだ心臓の真似事を繰り返していて。躊躇ためらうことなく、海月はそれに犬歯を立て、そして飲み込んだ。バラバラになった死屍守の死骸しがいが崩壊を始める。


「――は、はは、やっば」


 燈莉は顔を引きつらせてそう笑った。普段の上品さを忘れた素の表情。だってこんなの、初めてだ。死屍守を食うなんて!やはり自分の予言に狂いはなかった。


 崩壊していく死骸をぼうっと見つめる海月の名を呼び近寄って。ふと、異変に気が付いた。


 燈莉を見つめ返す海月の目。元から光のないその目は瞳孔どうこうを開いたままうつろに燈莉を射抜いている。


「…………もっと」


 飲まれている。危険を察知した時にはもう遅かった。牙が目の前まで迫っている。咄嗟とっさに身体をらせ、そのまま後方へ回避。 振り上げた脚は海月の頚部けいぶを打つ。


「……参ったな、暴力は嫌いなんだけど」


 海月はその攻撃をものともせず接近した。片腕の、力任せの大雑把な重い暴力。それをさばきながら燈莉は苦笑した。


「仕方ないね。君をこうしたのは僕だ。責任は取ろう」


 そこまで言って、燈莉は動きを止め海月の追撃を受け止めた。筋肉質故の圧に身体が後方へ倒される。大きく開かれた捕食者のそれを腕で防ぐも、海月の歯は容易くそこへ穴を開けた。ずる、と肉が剥ける音。人を接待する為美しくあつらえられたスーツの防御力など何の役にも立たない。


「――っははは、そんなに僕が食べたいのか。せめて美味しいといいなあ!」


 ギリ、と硬いものが擦れる音が聞こえた気がした。顔に降り注ぐ自身の血液とその痛みに燈莉は顔をしかめる。しかしその痛みすら快楽に変わるほど気分は高ぶっていた。


「困った犬だ。待ても出来ないのかい」


 海月の視線を見つめかえして、やがてその首に鎖が巻きついた。垂れ下がったそれをリードのように思い切り引くと、一瞬遮断された空気に海月が小さくあえぐ。


 隙に逃した腕で、燈莉はそのまま海月の頭を押さえた。その抵抗を、焦点の合わない双眸そうぼうを熱をたたえた視線で絡め取って。


 威嚇いかくのようにゆがみ、赤黒く汚れたその口を噛み付くようにふさぐ。口内に広がった、死臭をともなうなんとも言えない生臭さにもよおされた吐き気を忘れようと、深く、乱暴に。近過ぎる距離に視界はぼやけ、それでも視線は外さず。創り出したの愛を注ぎ込むように。


 ――帰っておいで


 小さくうめいて、おおい被さるように海月の身体が力なく倒れる。天をあおぎ、ふと、口に残ったキスの味に忘れていた不快感を思い出した。飛び上がるように身体を起こしその苦い不快感を吐き出して、燈莉は身震いする。


「──ふっ、あッはははっ!こんなに不味いなんて初めてだ!」


 その身にまとう高価な布で雑に口を拭い、隣で潰れる海月に目をやって。年相応のあどけなさが残る寝顔に、凄惨せいさんな食事の跡。揺すっても起きる気配のない安らかさ。


「……やっぱり、満腹になると寝るんだね」


 彼と出会ったあの夜。彼は彼女をむさぼり食って、ふと死んだように眠った。彼女が今回乗っ取られたのは、副作用が上手く作用していなかったのか、あるいは彼女の未練か。どちらにせよ、公務に情を混ぜ、しっかり彼女の最期を見届けなかった己に非がある。


 少し考えて、燈莉はその場を離れた。


 *


 嫌な視線を感じて、海月は薄く目を開けた。かすむ視界でじっとこちらを見つめる深い青の瞳に、その手に持たれたアルミ缶のポップな文字体フォントの『めろんそーだ』。


「……。ん……?――おあァっ!?」


 覚醒した脳に捩じ込まれた口内の情報。次いで腹の妙な満腹感。その正体を思いつき激しく嘔吐えずく。死んでそのまま放置された魚を下水で煮詰めたような、不味い、というよりも先に嗅ぐことすら本能が拒否するような強烈な腐敗臭が体内に充満している。痛みすら感じるその嫌な甘ったるさに、顔から排出される体液を拭う暇もない。悪寒がした。食ってしまったのだ。あの死肉を。


 そんな海月を見て燈莉は腹を抱えていた。ひいひいと笑い転げる燈莉を精一杯の怒りで睨む。


「笑いごどじゃない!」

「うん、ふふ、ごめんよ」


 ほら、と開けて手渡されたペットボトルの水を受け取り胃に流し込む。勢いに負け溢れ出た水は顎を伝って服を濡らした。気管に流れ込んだそれにせて、ようやく理解が状況に追いついた。


「死屍守は……」

「君が食ってしまったよ」

「知ってるよそれは。で?これで死んだ?」

「ああ。任務完了だ」


 安堵あんどのため息を漏らす。気を落ち着かせ、薄まった死肉の匂いを口内で転がしながら海月は天をあおいだ。


「……これで、姉さんを探せんの?」

「なんだ、急に素直になったね」

「うるさァ。そう言って火ぃつけたの燈莉さんじゃん」

「まぁね。――じゃあ、僕と一緒に働く気になってくれたのかい」


 どこか演技っぽく、それでいて嬉しそうに笑う燈莉に、海月は不貞腐ふてくされたようにぶっきらぼうに答えた。


「その話だけど。本当はなんの仕事してんの?」

「ホストだって本業さ」

「それは……見たらわかるよ。そうじゃなくて、僕をこうまでして勧誘する仕事」

「興味湧いた?」

「少しはね。教えてよ」


 燈莉は薄く微笑み缶に残った炭酸飲料をあおった。空になった缶を握り潰し、色っぽく空いた胸元を探って。月明かりを受けて首元に銀色のチェーンがちり、と光る。それに通された、二枚の薄い金属板を見せつけるようにかざした。


「葬儀屋だ」


 *


 ビルの一階、柔らかく落ち着いたライトが照らすレトロな看板。見つかりたくないとも言いたげな、人通りの少ない路地に身を潜める様は所謂いわゆる『隠れ家的』とにも分類出来ない孤高ここうさだ。


 精巧せいこうに木にられた独特な書体の『おりぃぶ』の文字列とアンバランスに噛み合うネオンライトの『BAR』。営業中とも確信のつかない静けさをまとう重厚な扉を押すと、拍子抜けする軽やかな木の音が二人を迎え入れた。


 不思議で上品な香りが空間に淡く漂い、程よく薄暗いアンティーク調の雰囲気に包まれる。耳馴染みのいいジャズ。先客は二人。海月は混乱していた。着いてこいと言われ連れてこられた小洒落たバーと何度反芻はんすうしても理解しきれない葬儀屋というワードが結びつかない。


「――おかえり、燈莉」


 カウンターの奥から渋い男性の声がかかった。しかしそこから顔を出したのは本来そこにはいるはずのない幼い子供が一人。カウンター席で二人の男女がまた燈莉を迎えた。


「遅いぞ、まーた問題児?」

「また?あの子はいい子の部類のはずだ」

「どうだか」

「ただいま。まぁ色々あってさ。ね、海月君」


 燈莉は男の隣に腰掛けながら海月に話を振った。タイミングよく子供のバーテンダーが慣れた手つきで燈莉の前に酒を出す。ロックグラスに注がれた琥珀こはく色のウイスキー。たくみに丸くカットされた氷が自慢気に浮かんでいる。


「海月と言うんだね。こっちにおいで。何がいい?」

「オーナー、彼は未成年だよ」

「おっと。ではホットミルクでも入れてあげよう」


 酒がいい、とはとても言えない。燈莉に横の席をうながされて店の奥へ歩く。その時。


 突然、視界が回った。理解が追いつかないまま容赦ようしゃのない体術に身体は玩具おもちゃのように投げられて。人間のそれとは思えない腕力で押さえつけられ指の一つも動かせない。燈莉の抗議を、投げた張本人である男の怒声が遮る。


「話が違うぞ燈莉。なんだコイツは。なんでコイツから死屍守の気配がする?」

「やめとけ、りん。酒入ってんだぞ」


 女の制止も聞かず低く吠えるような荒々しさで、彼女にりんと呼ばれた男は燈莉を睨んだ。燈莉は怯む様子も見せず、むしろ煽るように顎をしゃくる。


「言ったじゃないか。面白いことになるって。僕の予言は当たったってことさ」

「お前……」

「止めないか、埃が立つ」


 淡々と。子供のバーテンダーはそう言って二人をなだめた。何故か逆らう気の起きない異様な威圧感に一触即発な雰囲気が霧散むさんする。


「臨の言い分は間違っていない。ただ客人に暴力はダメだな。彼から離れなさい。――で、燈莉。今の話をその腕の怪我の理由も含めて全て説明しろ」


 見た目と調和しない支配力に海月はおののく。臨による拘束が解かれ身体を起こすと、燈莉が貼り付けた笑みのまま海での出来事を話した。


「……――いや、嘘でしょ」

「事実だよ。海月君は死屍守を食い殺せる」


 燈莉の流し目に、海月は肯定の意を示した。臨はため息とともに頭を押さえる。


「ありえない。コイツは自覚症状もまだだったんだろ。いくら抗体があるとは言え、そんな不安定な奴が死屍守を食って無事で済むはずがない。暴走したんなら尚更だ。コイツの副作用はただの暴力でしかなくなる。分かってるだろ?掟違反になるんだぞ」

「ああ分かってるさ。その上で、僕が僕の責任でやったことだ。彼が副作用を使いこなせるようにするためにね。そうでもしないと第二次性徴を終えた身体で自覚症状を出すのは困難だろ。彼が戻って来れなくなるのも、襲われるのも想定内だ。彼の勧誘の許可は貰った。そうだよね、オーナー?」


 バーテンダーはふむ、と目を閉じた。考えの読めない機械的な美しさ。恐怖すら感じるその雰囲気に呑まれる。子供の口から発せられた低い男声に名を呼ばれる。


「少し来てくれるか。ぼくは君と話がしたい」


 開かれた双眸そうぼうに背筋が伸びた。その妖艶ようえんな赤い目と視線が絡む。慣れないその声に誘われ、海月は立ち上がった。


 *


 静まった店内に、氷の溶ける音だけが落ちる。その沈黙を破るように、女――蒼樹そうじゅ大袈裟おおげさに息をついた。


「彼は知り合いか何か?お前があそこまでムキになるなんて珍しい」

「いや。五日くらい前?仕事帰りに行った任務で生き残った子だよ。蒼樹が治療してくれたんじゃないか」

「それは覚えてる。けど、赤の他人ってこと?いつからそんなに慈悲深い人間になったんだ」

「酷いな蒼樹。僕にだって情くらいあるさ」


 二つのグラスで、氷が溶ける。程よく薄まったウイスキーを口に含み、燈莉は身体に染み込んでいく酔いの熱さに微笑する。


「心配しなくても、僕が間違っているのは僕が一番分かってるよ」

「じゃあなんでアイツを?」

「……悪いね。ただの私情だ」

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