第四夜 今際の香は

 随分とリアルな夢を見ていた気がした。身体を起こして、喉の乾きに軽くせる。覚醒した頭にごちゃごちゃとした環境音が流れ込んだ。静かで、長閑のどかな平和の象徴。ベッドサイドのアナログ時計は、昼の三時を指している。身体は思いのほかすっきりしていた。疲れも残っていない。残るのはただ一つの重たい喪失感のみ。


 いつもの日常のはず。だが隣に彼女はやはり居なかった。苦手だった柔軟剤の甘い匂いも、寝起きのおはようも、何一つ。寂しい、とは、言えない。その資格すら自分には。


 身体に刻まれた飼い主の真似事。不相応に高くなってしまった生活水準の身支度の後、海月かづきは部屋を出た。都会の人臭さが身体に吹き付ける。行くあてもなく、ふらふらと人々の日常へ紛れていく。



「あれ、不破ふわっち?」


 そう、背後からの声に振り向くと、自分より少し背の低い男が立っていた。元バイト先の友人、恭介きょうすけ。久しぶり、と手を挙げると、恭介は笑顔を青くして硬直した。


「お前、それ、どうした」


 恭介の目は怯えたように、海月の空白のそこに縫い付けられていて。


「んー、事故」


 だから海月は、何ともない、というようにおどけてみせた。人間の、困惑の色。まだ己に、こんな顔を向けてくれる人がいるらしい。例えようのない多幸感にひたり、満面の笑みで距離を詰める。


「ね、飯奢ってよ。腹ぺこでさ」


 残った腕で肩を抱くと、恭介は笑みを取り戻した顔で呆れたように眉を寄せた。


「しゃーねぇな。話聞かせろよ?」


 何食いたい、という問いへの、肉!という元気な返事に、とうとう恭介は吹き出した。



 早くから出来上がった大人たちの喧騒けんそうと、肉の焼ける香ばしさ。美味そうに焼きあがった肉を頬張る向かいで、恭介の箸は止まる。


「嘘だろ?」

「マジだよ。死んじゃった」


 まるで天気の話のような軽さで。そう答えた海月にかける言葉もないようだった。同級生だったミユと恭介。告げられた彼女の訃報ふほうへただ沈黙。自分は怒ることも、心配することも出来ないと。海月に人の死をいたむ心がない訳では無いことを、恭介は知っているのだ。


「なんかさ、腹減ってしょうがないんだけど。食っても食っても腹減んの。追加してもいい?」

「――あぁ。好きなだけ食いな」

「やりぃ」


 呼び出した店員へ追加の注文を終えた頃、似合わない真剣な顔に名を呼ばれる。


「お前さ、これからどうすんの?またうち来るか?」

「うーん、接客はもういいかな。向いてないし、腕もこんなんじゃね」


 うち、は恭介の働くカフェだ。過去に海月は彼女に勧められそこでバイトをし、一ヶ月で辞めた。 恭介の、深いため息。


「どの口が。天職だったろ……。腕だって、ほら、義手とか、あるじゃん。オーナーも、お前に会いたいって」

「あは、オーナー、可愛いとこあんね」


 飄々ひょうひょうと笑ってかわす海月に、恭介は薄く笑った。


 *


「じゃあ。連絡しろよ」


 店を出た頃、既に辺りは暗くなっていた。思い出話に花が咲きすぎたようだった。別れた後で、満たされた腹を撫ぜる。僕も帰ろう。と言っても、あそこは自分の家じゃないけれど。飼い主の居ない家など、帰る権利は、自分には。今は迷い犬の身だから。それでも身体に染み付いた習慣は海月をあの部屋に導いていく。


 虚ろな目で歩きながら、ふと遠くにその姿をとらえて海月は固まった。人混みに紛れるように、それでいて隠すことの出来ないその異物感。あの日に見た、それによく似た。街を行く人はまるで見えていないように日常を続行。それでもはっきりと、その死屍守は海月を見据えていて。


 あの日のものとは別物だ。見た目も、雰囲気も。なのに。海月にはどこか、の気配がした。身体が動かない。人々は冷めた目で海月を避けていく。


 死屍守が、動く気配。本能が海月を突き動かした。行き交う人にぶつかるのも、その抗議も無視して、海月はそれと反対方向に走った。


 追われている。振り向かずとも理解した。確実に己に向けられた殺気を、気付かないふりなどできるはずも。苛立ち、口内で舌が弾ける。上手く走れない。すぐ後ろにそれが迫っているというのに。その死人の声が、混乱する脳を震わしている。解読不能。


 逃げ続けて、バランスの取りずらい身体はついに転倒した。受け身を取れないままに直接鈍い痛み。擦りむいたか、砂利が食い込む異物感。


 気付けば海に居た。海の波打つ音に混ざるように、死人の声が響いて。耳が受け取る支離滅裂な情報は、今度ははっきりと頭で理解出来る。


 なんでいっしょにきてくれないの


 機械的に繰り返されるそのは、耳を塞いでもなお脳に響き渡った。水の中のような浮遊感に、ビリビリと耳鳴りがする。身体が慣れてしまった嘔気おうきに、強制的に喉奥が開いた。


 ぬるい水音にふと視界が定まって、海月は困惑した。吐瀉としゃ物に何も混ざっていない。己が吐き出したのは、ただ無色で粘性の体液。大量に食べたはずの食物が、その欠片も。


 座り込み、海月は水面を眺めた。こんな修羅場だと言うのに、海は穏やかに凪いでいて。同じ言葉を狂ったように繰り返す死屍守に、既に心は砕かれていた。もういっそのこと。


 海月はおぼつかない足取りで先を目指した。この腕ではどうせ、満足に泳げない。きっと、このまま落ちれば死ぬだろう。もう、逃げた時の体力は無意味な過去に成り下がった。背後の死屍守と、目の前には遠く広がる、深い青色。


 ふと脚に、冷たい感覚。血の流れない死体の、無機物の冷たさだ。海月の脚を掴むそのは蝋のように青白い。


 なんで、いっしょに、


「――ッチ、最ッ悪!」


 追い詰められ感情は落ち着かなかった。ただ妙に一層激しい腹立たしさが冷え切った身体の熱を保っている。


 なんで、きて、


「うるッせぇなぁ!僕のせいにすんなよ!」


 なんで、なんでぇえぇえ、ええ、!


 強い力が加わり、身体が玩具がんぐのように引きずられて。だから怒りに身を任せ、無理やりにそれを引き離す。


「来んな!君は死んだんだ!」


 貧血の嫌な浮遊感を受け流し、海月は不格好に走った。


 走って、走って。そこで足がすくんだ。じゃり、と踏みしめた砂利が静かに海へ落ちていく。足元の、吸い込まれるような深さの。自分もこのまま、落ちるだけ。なのに。


 ぐしゃりと顔を歪めた。なのに、どうしてまだ躊躇ためらっている。恭介を巻き込む訳にもいかないのだ。頼れる人は、もう。


 ──いや。


 脳裏に、目の前の海のようなあのんだ美しさが浮かんだ。プラチナブロンドの柔らかそうな髪と、人工的な上品さをたたえた笑みを。


 背後の死屍守は現実だ。このまま落ちれば、迎える死と共に死人から解放されるだろう。死んでもなお執着しゅうちゃくされたとしても、どうせ死んだら何も感じない。死とは無になることだ。自分は罪人である。人の死に泣けず、その死にうらまれながら死んでいく。クズにお似合いの顛末てんまつだ。けど。


 燈莉とうりの言う通りだった。自分はまだ、傲慢ごうまんにもこの生に悔いがある。まだ生きたいと、死にたくないとそれを拒んでいる。ポケットを漁ると、折れ曲がったそれが指先に当たった。特別だ、と手渡された最後の救い。細く、息を吐いた。どうしても、この身体は命を手放してくれない。その上なんという幸運か、まだ一人、頼れる人が自分には残っている。


 疲労に震える指先で、海月はスマホを操作した。達筆な数字の羅列られつを、一つ一つ。スピーカーに設定されたそれは、三コールの後応答した。


『──カヅ君、だね?』


 一瞬の間の後で、思わず笑いが漏れ出す。


「その呼び方はやだって」


 番号表示の画面の奥で、燈莉が笑った。あの上品さが見えた気がした。


『良かった。明日には番号を変えようとしてたんだよ』

「えー、そんな信用ない?」


 緊迫した空気が緩んでいく。震えているのを悟られないように挑発的に。


「……燈莉さん」


 呟く。優しい声色の返事が聞こえた。


「ごめん。あんたの言う通りだった。僕はまだ家族に未練がある。無になれるチャンスだったのに、死ぬのが嫌みたいだ」

『――謝ることないよ。死ぬのが嫌なんて、別に変な事じゃないだろ』

「……そだね」

『ああ。……ね、海月君。君は僕にどうして欲しい?』


 どこか試すような口調。返した言葉は、笑ってしまうほどか細く震えた。恐怖からか、安堵あんどからか、理由は分からないままで。


「……たすけて、燈莉さん」


 不敵に笑う気配。心の安らぐフゼアノートが優しく、刺すように香る。


「ご指名、ありがとうございます」


 肉声で、そう言われた。


 刹那せつな、死屍守の叫びがとどろいた。

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