第四夜 今際の香は
随分とリアルな夢を見ていた気がした。身体を起こして、喉の乾きに軽く
いつもの日常のはず。だが隣に彼女はやはり居なかった。苦手だった柔軟剤の甘い匂いも、寝起きのおはようも、何一つ。寂しい、とは、言えない。その資格すら自分には。
身体に刻まれた飼い主の真似事。不相応に高くなってしまった生活水準の身支度の後、
「あれ、
そう、背後からの声に振り向くと、自分より少し背の低い男が立っていた。元バイト先の友人、
「お前、それ、どうした」
恭介の目は怯えたように、海月の空白のそこに縫い付けられていて。
「んー、事故」
だから海月は、何ともない、というようにおどけてみせた。人間の、困惑の色。まだ己に、こんな顔を向けてくれる人がいるらしい。例えようのない多幸感に
「ね、飯奢ってよ。腹ぺこでさ」
残った腕で肩を抱くと、恭介は笑みを取り戻した顔で呆れたように眉を寄せた。
「しゃーねぇな。話聞かせろよ?」
何食いたい、という問いへの、肉!という元気な返事に、とうとう恭介は吹き出した。
早くから出来上がった大人たちの
「嘘だろ?」
「マジだよ。死んじゃった」
まるで天気の話のような軽さで。そう答えた海月にかける言葉もないようだった。同級生だったミユと恭介。告げられた彼女の
「なんかさ、腹減ってしょうがないんだけど。食っても食っても腹減んの。追加してもいい?」
「――あぁ。好きなだけ食いな」
「やりぃ」
呼び出した店員へ追加の注文を終えた頃、似合わない真剣な顔に名を呼ばれる。
「お前さ、これからどうすんの?またうち来るか?」
「うーん、接客はもういいかな。向いてないし、腕もこんなんじゃね」
うち、は恭介の働くカフェだ。過去に海月は彼女に勧められそこでバイトをし、一ヶ月で辞めた。 恭介の、深いため息。
「どの口が。天職だったろ……。腕だって、ほら、義手とか、あるじゃん。オーナーも、お前に会いたいって」
「あは、オーナー、可愛いとこあんね」
*
「じゃあ。連絡しろよ」
店を出た頃、既に辺りは暗くなっていた。思い出話に花が咲きすぎたようだった。別れた後で、満たされた腹を撫ぜる。僕も帰ろう。と言っても、あそこは自分の家じゃないけれど。飼い主の居ない家など、帰る権利は、自分には。今は迷い犬の身だから。それでも身体に染み付いた習慣は海月をあの部屋に導いていく。
虚ろな目で歩きながら、ふと遠くにその姿を
あの日のものとは別物だ。見た目も、雰囲気も。なのに。海月にはどこか、
死屍守が、動く気配。本能が海月を突き動かした。行き交う人にぶつかるのも、その抗議も無視して、海月はそれと反対方向に走った。
追われている。振り向かずとも理解した。確実に己に向けられた殺気を、気付かないふりなどできるはずも。苛立ち、口内で舌が弾ける。上手く走れない。すぐ後ろにそれが迫っているというのに。その死人の声が、混乱する脳を震わしている。解読不能。
逃げ続けて、バランスの取りずらい身体はついに転倒した。受け身を取れないままに直接鈍い痛み。擦りむいたか、砂利が食い込む異物感。
気付けば海に居た。海の波打つ音に混ざるように、死人の声が響いて。耳が受け取る支離滅裂な情報は、今度ははっきりと頭で理解出来る。
なんでいっしょにきてくれないの
機械的に繰り返されるその
ぬるい水音にふと視界が定まって、海月は困惑した。
座り込み、海月は水面を眺めた。こんな修羅場だと言うのに、海は穏やかに凪いでいて。同じ言葉を狂ったように繰り返す死屍守に、既に心は砕かれていた。もういっそのこと。
海月はおぼつかない足取りで先を目指した。この腕ではどうせ、満足に泳げない。きっと、このまま落ちれば死ぬだろう。もう、逃げた時の体力は無意味な過去に成り下がった。背後の死屍守と、目の前には遠く広がる、深い青色。
ふと脚に、冷たい感覚。血の流れない死体の、無機物の冷たさだ。海月の脚を掴むその
なんで、いっしょに、
「――ッチ、最ッ悪!」
追い詰められ感情は落ち着かなかった。ただ妙に一層激しい腹立たしさが冷え切った身体の熱を保っている。
なんで、きて、
「うるッせぇなぁ!僕のせいにすんなよ!」
なんで、なんでぇえぇえ、ええ、!
強い力が加わり、身体が
「来んな!君は死んだんだ!」
貧血の嫌な浮遊感を受け流し、海月は不格好に走った。
走って、走って。そこで足がすくんだ。じゃり、と踏みしめた砂利が静かに海へ落ちていく。足元の、吸い込まれるような深さの。自分もこのまま、落ちるだけ。なのに。
ぐしゃりと顔を歪めた。なのに、どうしてまだ
──いや。
脳裏に、目の前の海のようなあの
背後の死屍守は現実だ。このまま落ちれば、迎える死と共に死人から解放されるだろう。死んでもなお
疲労に震える指先で、海月はスマホを操作した。達筆な数字の
『──カヅ君、だね?』
一瞬の間の後で、思わず笑いが漏れ出す。
「その呼び方はやだって」
番号表示の画面の奥で、燈莉が笑った。あの上品さが見えた気がした。
『良かった。明日には番号を変えようとしてたんだよ』
「えー、そんな信用ない?」
緊迫した空気が緩んでいく。震えているのを悟られないように挑発的に。
「……燈莉さん」
呟く。優しい声色の返事が聞こえた。
「ごめん。あんたの言う通りだった。僕はまだ家族に未練がある。無になれるチャンスだったのに、死ぬのが嫌みたいだ」
『――謝ることないよ。死ぬのが嫌なんて、別に変な事じゃないだろ』
「……そだね」
『ああ。……ね、海月君。君は僕にどうして欲しい?』
どこか試すような口調。返した言葉は、笑ってしまうほどか細く震えた。恐怖からか、
「……たすけて、燈莉さん」
不敵に笑う気配。心の安らぐフゼアノートが優しく、刺すように香る。
「ご指名、ありがとうございます」
肉声で、そう言われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます