第三夜 夢寐にも呪い
消灯時間の過ぎた薄暗い廊下を並んで歩く。平和的な、なんともない世間話を交わしながら。
「じゃあ、世話になりました」
「あぁ、こちらこそ。……っと、一つ言い忘れてた。君は未成年だからね。酒もタバコもだめだよ」
「……しませんよ」
「そうしてくれよ、おやすみ」
いい夢を、と
残された燈莉の元へ一つの人影。
「逃がしたのか?」
隣に立った声の主を軽く見上げ、燈莉は不敵な笑みを浮かべた。
「人聞き悪いなあ。判断を
「そうか。……で?どうだったんだ、あいつ自身は。ドールだったんだろ」
「ああ。彼はドールだ。けど……珍しいね。恐らく彼、自覚症状がまだ出てない」
「……は?あの歳でか?冗談はよせ」
「本気さ。事例が無いわけでもないだろう?」
「だって……大丈夫なのか」
「さぁね、面白くなるのは確かだよ」
タクシーの消えていった方向を薄く睨み、燈莉は何かを見透かすように顎を引く。
「まあともかく、僕を信じてよ。――彼は必ず帰ってくる。過程は知らないけどね。これは予言だ。今まで僕が予言を外したことがあったかい?」
*
扉の閉まる音が、やけに大きく感じた。電気の消えたままの
冷蔵庫を開けた。料理好きを自称していた彼女の冷蔵庫にはいつでも作り置きがあって。A型らしい、形の
海月はそれらから目を逸らし、かわりに隣の酒を手に取った。自分用に買い与えられていた酒は切れていた。海月の年齢詐称を疑うことなく乾杯していた夜を思い返し、彼女用の甘いそれを流し込む。あまりに甘ったるく舌に絡みついて、嫌に痺れる微かなアルコール。
この家は、近いうちに退居しなければならない。己に払える家賃はないのだから。家賃に限らず、生活に必要な金は全部飼い主が出していた。当たり前だった。自ら金を稼いで生きるペットなんて存在しない。家は無くなるから、とっとと次の飼い主を探そう。野良犬に似合いのダンボール生活で、人の善意を揺さぶって。
それはそうと、遺品整理は、自分がやるべきなのだろうか。彼女の死を両親には伝えるべきなのだろうか。彼女は家族との縁を切っていた。では
『私が死んだら、貯金は全部カヅくんにあげるね』
生前、彼女がそう言っていたのを思い出した。記憶を
ふう、と、静かに息をつく。彼女を、哀れだと思った。こんな自分に尽くして、偽物の愛を本物と疑わず、最期には化け物に成り下がって骨すら残らない逝き方をした彼女を。胸糞悪さにアルコールの甘さが渦巻いて、海月は洗面台に走った。甘い酸性の、生暖かい液体が喉を焼く。
「はは……」
「僕、こんなに泣けなかったっけ」
目の前の鏡に映る自分は、
死ぬべき人間が生き延びて、なんの罪も無い、生きるべき人間が最悪な最期を迎える。愛はなかった。ただ。情がなかったわけじゃない。なのにどうして、涙のひとつも出せない人間になってしまったのか。この空間から抜け出したかった。だが
一つのシングルベッド。軋む音を立て、広くなったそれに海月は一人沈んだ。
*
夢を見た。これは夢だと、はっきりと分かる
飛び散った赤色の、その狂気的な美しさ。
『走って、早く!逃げるの!』
母親が怒鳴っていた。
無理だ。
無理に決まってる。目の前で母親が襲われているのに。周囲は炎で囲まれ、
怖くて、怖くて、仕方なくて。
姉の頼りない身体に、しがみつくことしか出来なくて。
気が付けば、自分の身体は抱えられていた。
『嫌だぁ!母さん!母さん──!』
ボロボロと流れた涙も、
あの日、初めて人の死を見た。
信じ
戦争は海月から家族を奪った。両親は死に、姉は姿を消した。
父は顔も、その声すらも知らないまま逝った。軍人だった父は自分が生まれてすぐに戦死した。愛していると家族に告げて、そして帰ってこなかった。
──場面が変わった。
過ぎていく人の
冷たい視線すら向けられない、汚い迷い犬だった頃の記憶だ。
『朝から、居ましたよね』
そう声が振ってきて、見上げると『飼い主』が心配そうな顔で自分を見下ろしていた。拾われた日の記憶のようだ。
彼女の傘が、降りかかる雨を
『あったかいですよ。風邪、引いたら大変でしょ?』
『……ありがとう、ございます』
そういえば、ずっと空腹だった。温められたばかりのそれを頬張っていると、彼女は隣に座った。香水か、甘い匂いがした。
『お兄さん、お名前は?』
『
『海月くんかぁ、じゃあ、カヅくんですね』
『……』
変な人だと、そう思った。ご馳走様と感謝を告げて、それでも一向に離れていく様子のない彼女に。
『……よく、僕に構いましたね』
『ほっとけなくて』
『変なの』
彼女は笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。でもどこか、痛々しい笑みだった。
『お姉さん、いくつ?』
『女性に年齢を聞くのは失礼なんですよ?二十五です』
『教えてくれるんだ』
『えへへ、カヅくんは?』
『……二十』
嘘をついた。まだ十七の年だった。未成年と正直に言えば面倒なことになると思ったから。警察になんて連れていかれれば、身寄りのない自分ではまた施設に逆戻りだろうと。せっかく逃げ出したのに、その先が不自由だったとしても、手に入れた自由はもう手放したくなかった。
けれど。この時嘘をついていなければ、彼女が『飼い主』になることはなかったのだろう。
死ぬことなんて、それこそ。
無駄だ。今更なにを思っても、死んだ人間は帰ってこない。
人の繋がりは
夢の浮遊感の中、いかないで、と『飼い主』の声が震えていた。
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