第三夜 夢寐にも呪い

 消灯時間の過ぎた薄暗い廊下を並んで歩く。平和的な、なんともない世間話を交わしながら。やわく響く靴音が、消毒液の匂いをまとった静寂せいじゃくを切り裂いて。玄関前、いつの間にか待たされていたタクシーに一人乗り込み礼をする。


「じゃあ、世話になりました」

「あぁ、こちらこそ。……っと、一つ言い忘れてた。君は未成年だからね。酒もタバコもだめだよ」

「……しませんよ」

「そうしてくれよ、おやすみ」


 いい夢を、と燈莉とうりの言葉を最後に、冷たく心地よい夜風の中二人は別れた。


 残された燈莉の元へ一つの人影。


「逃がしたのか?」


 隣に立った声の主を軽く見上げ、燈莉は不敵な笑みを浮かべた。


「人聞き悪いなあ。判断をゆだねただけだよ。今は彼に戦う意思もなさそうだったしね」

「そうか。……で?どうだったんだ、あいつ自身は。ドールだったんだろ」

「ああ。彼はドールだ。けど……珍しいね。恐らく彼、自覚症状がまだ出てない」

「……は?あの歳でか?冗談はよせ」

「本気さ。事例が無いわけでもないだろう?」

「だって……大丈夫なのか」

「さぁね、面白くなるのは確かだよ」


 タクシーの消えていった方向を薄く睨み、燈莉は何かを見透かすように顎を引く。


「まあともかく、僕を信じてよ。――彼は必ず帰ってくる。過程は知らないけどね。これは予言だ。今まで僕が予言を外したことがあったかい?」


 *


 扉の閉まる音が、やけに大きく感じた。電気の消えたままのうつろな部屋。二人窮屈だった部屋は、一人だとこんなにも広く感じるらしかった。


 海月かづきと飼い主は互いに孤独だった。両親を亡くし姉と離別した海月と、両親に愛されず孤独を自ら選んだ彼女。理由こそ正反対だったが、互いのやり場のない寂しさを埋めるためだけのこのいびつな関係は思いのほか居心地がよかった。愛は、少なくとも海月にはなかった。自分は、何も言わずに自分を愛して欲しいと買われた犬で、互いに都合のいい関係。それ以上でも以下でもない。金の上で成立した作り物の情。


 冷蔵庫を開けた。料理好きを自称していた彼女の冷蔵庫にはいつでも作り置きがあって。A型らしい、形のそろった保存容器に収められた、熱を失った食事。腹は減っていた。だが、これを腹に入れようと思う程の食欲はない。


 海月はそれらから目を逸らし、かわりに隣の酒を手に取った。自分用に買い与えられていた酒は切れていた。海月の年齢詐称を疑うことなく乾杯していた夜を思い返し、彼女用の甘いそれを流し込む。あまりに甘ったるく舌に絡みついて、嫌に痺れる微かなアルコール。


 この家は、近いうちに退居しなければならない。己に払える家賃はないのだから。家賃に限らず、生活に必要な金は全部飼い主が出していた。当たり前だった。自ら金を稼いで生きるペットなんて存在しない。家は無くなるから、とっとと次の飼い主を探そう。野良犬に似合いのダンボール生活で、人の善意を揺さぶって。


 それはそうと、遺品整理は、自分がやるべきなのだろうか。彼女の死を両親には伝えるべきなのだろうか。彼女は家族との縁を切っていた。では無縁仏むえんぼとけか?その金は誰が出す?そもそも遺体の残らなかった死者はどうとむらうべきか。


『私が死んだら、貯金は全部カヅくんにあげるね』


 生前、彼女がそう言っていたのを思い出した。記憶を辿たどって、をしまっていたはずの引き出しを開ける。記憶通り、几帳面にひとつ収められた彼女名義の通帳。中を開くと、新しい、最後の記入欄には三十万とあった。


 ふう、と、静かに息をつく。彼女を、哀れだと思った。こんな自分に尽くして、偽物の愛を本物と疑わず、最期には化け物に成り下がって骨すら残らない逝き方をした彼女を。胸糞悪さにアルコールの甘さが渦巻いて、海月は洗面台に走った。甘い酸性の、生暖かい液体が喉を焼く。


「はは……」


 空虚くうきょな部屋に乾いた笑いが落ちた。己の心は堕落だらくしきってしまったようだった。


「僕、こんなに泣けなかったっけ」


 目の前の鏡に映る自分は、ひどみにくい顔で笑っていた。彼女の遺した綺麗さが、己の汚さを露呈ろていさせる。目を逸らしたくて、消し去りたくて、生ぬるい水で顔を擦った。片手では、上手く出来ずに水が音を立てて飛び散る。一つ舌打ち。嫌に空気が重かった。既に、彼女が死んでから二日が経っている。腕を失って、失血死寸前で救われて、そして生かされて。


 死ぬべき人間が生き延びて、なんの罪も無い、生きるべき人間が最悪な最期を迎える。愛はなかった。ただ。情がなかったわけじゃない。なのにどうして、涙のひとつも出せない人間になってしまったのか。この空間から抜け出したかった。だが貪欲どんよくにも身体は休養を求めている。


 一つのシングルベッド。軋む音を立て、広くなったそれに海月は一人沈んだ。


 *


 夢を見た。これは夢だと、はっきりと分かる明晰夢めいせきむ


 飛び散った赤色の、その狂気的な美しさ。


『走って、早く!逃げるの!』


 母親が怒鳴っていた。


 無理だ。


 無理に決まってる。目の前で母親が襲われているのに。周囲は炎で囲まれ、がうじゃうじゃと彷徨さまよっている。熱風に喉が焼けて。足はなまりのように重くて、恐怖に、絶望に、拘束されて動かない。


 怖くて、怖くて、仕方なくて。


 姉の頼りない身体に、しがみつくことしか出来なくて。


 気が付けば、自分の身体は抱えられていた。


『嫌だぁ!母さん!母さん──!』


 ボロボロと流れた涙も、むなしく空気に焼けて。


 あの日、初めて人の死を見た。


 信じがたい光景と母親の涙が、血液が脳裏に焼き付いて。目の前で起こった事実は、まだ幼かった自分にとって重過ぎて。


 戦争は海月から家族を奪った。両親は死に、姉は姿を消した。


 父は顔も、その声すらも知らないまま逝った。軍人だった父は自分が生まれてすぐに戦死した。愛していると家族に告げて、そして帰ってこなかった。


 ──場面が変わった。


 過ぎていく人の雑踏ざっとう。体温を奪っていく小雨。


 冷たい視線すら向けられない、汚い迷い犬だった頃の記憶だ。


『朝から、居ましたよね』


 そう声が振ってきて、見上げると『飼い主』が心配そうな顔で自分を見下ろしていた。拾われた日の記憶のようだ。


 彼女の傘が、降りかかる雨をしのいでくれていて。手に提げたコンビニのビニール袋からおにぎりを差し出される。ベーコンエッグのおにぎり。変なチョイスだなと思いながら受け取った。


『あったかいですよ。風邪、引いたら大変でしょ?』

『……ありがとう、ございます』


 そういえば、ずっと空腹だった。温められたばかりのそれを頬張っていると、彼女は隣に座った。香水か、甘い匂いがした。


『お兄さん、お名前は?』

不破ふわ……海月』

『海月くんかぁ、じゃあ、カヅくんですね』

『……』


 変な人だと、そう思った。ご馳走様と感謝を告げて、それでも一向に離れていく様子のない彼女に。


『……よく、僕に構いましたね』

『ほっとけなくて』

『変なの』


 彼女は笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。でもどこか、痛々しい笑みだった。


『お姉さん、いくつ?』

『女性に年齢を聞くのは失礼なんですよ?二十五です』

『教えてくれるんだ』

『えへへ、カヅくんは?』

『……二十』


 嘘をついた。まだ十七の年だった。未成年と正直に言えば面倒なことになると思ったから。警察になんて連れていかれれば、身寄りのない自分ではまた施設に逆戻りだろうと。せっかく逃げ出したのに、その先が不自由だったとしても、手に入れた自由はもう手放したくなかった。


 けれど。この時嘘をついていなければ、彼女が『飼い主』になることはなかったのだろう。


 死ぬことなんて、それこそ。


 無駄だ。今更なにを思っても、死んだ人間は帰ってこない。


 人の繋がりは強固きょうこな呪いだ。家族という呪いは、死んでもなお縛られる愛の証。


 夢の浮遊感の中、いかないで、と『飼い主』の声が震えていた。


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