第二夜 ホストと迷い犬

 ツンと薬品の匂い。どこか鼻馴染みのいい刺激臭にゆっくり意識を手繰たぐられる。あわい蛍光灯の光で、乾いた目がヒリついた。


「おはよう、カヅ君」


 落ち着いた柔らかいテノールにそう呼ばれて。生理的な涙でうるんだ目を瞬かせ、かすんだ焦点を鮮明にます。知らない、それでいて見慣れた天井だった。身体には重く違和感が残っている。


 白い閉塞へいそく的な背景の隅で、さらりとプラチナブロンドが揺れて、それと目が合った。光のない、青くんだひとみの美しさ。助けてくれた人物だと理解するのに時間はかからなかった。


「……その呼び方は、やです」


 一瞬固まったあと、その男が吹き出した。失礼、と言いながら笑いは止まらないようで。しっかりと口元を隠しているその振る舞いを、無駄に上品だと海月かづきは見守った。


「ごめん、ね?ふふ、君と一緒にいた人がそう呼んでいたろ?僕は君の名前を知らないからね。許してくれよ」

「……確かに。ごめんなさい」


 ようやく覚醒した頭でする謝罪。なまりのような身体を起こそうとして、違和感の正体を思い出した。


「腕、ほんとに無いんだ」


 単なる、事実の照会しょうかい。だがその呟きに、ピン、と空気が冷えた。途端とたんに真剣な顔へ戻した彼に、よく動く表情筋だな、と感心する。


「……すまない。僕の過失だ」


 海月は怪訝けげんな表情で男の顔を覗き込んだ。


「なんで?お兄さん助けに来てくれたじゃん。きっとここに連れて来てくれたのもお兄さんなんでしょ?」

「あぁ、まあ……」

「謝んないでよ。気にしてないし。それより、」


 海月は勢いをつけて上半身を起こした。怪我人らしからぬ行動にぎょっとしたようだ。軽く目を見張った彼に問う。


「女の子は、死んだんですか」


 沈黙。あえて言葉を待った。


「彼女は、亡くなったよ。――死屍毒ししどくは、聞いた事があるだろう?君たちを襲ったのはそれの宿主である死屍守だ。彼女は最初傷をつけられた時点で感染していたんだろう。結果的に彼女は死屍守に成って君を襲った」


 死屍毒。その昔流行った疫病えきびょうの、その病毒ウイルスだ。極めて高い致死率を持ち、人体の機能を退化させ身体を腐らせる


 むごい事実を突きつけられ、それで海月は、ただ。


「……そっか」


 それだけで答えた。あまりにも素っ気ない納得だと、自分でも言った後でどうかと思うような。男は表情を崩さず、それでどこか探るような顔で口を開いた。


「――彼女とは、どんな関係だったんだい」


 当然と言えば当然の問いだった。はたから見れば恋人同士の距離感で、それなのに彼女の死にまるで興味が無い。海月もまた、表情を変えず答えた。


「飼い主」

「……なに?」

「飼い主ですよ。僕は犬です。生かしてもらう代わりに愛を与える彼女の愛玩動物ペットだ」


 困惑の色を強めた男に、海月は悪戯いたずらっぽく口の端を上げた。挑発的に犬歯をむき出し、引き込むように乱暴な早口で。


「薄情でしょ。わかってるよ、お兄さんが思ってること。でも……あっちは知らないけど、少なくとも僕に愛なんてない。養ってもらって、愛を求められたらあげるだけ。なんて言うんだっけ、こういうの。ヒモってやつ?あなたはさっき謝ったけど、間違ってるよ。だって被害者はお兄さんだ。自分だって危ないってのに助けた人間がこんなクズ野郎なんだから」


 海月はかげっていた男の腕を掴んだ。海月のものより線の細いそれには包帯が巻かれていて。薄く体液がみ出し、にじんだそれを誤魔化すように彼は腕を引く。


「……驚いた。君のが重症だろう」


 袖で包帯を隠しながら、長い脚を組み直してからりと笑って続けた。


「君のイカレ具合は嫌いじゃない。思った倍は好きなタイプだ」

「口説いてます?僕は普通でしょ」

「僕の認識では、普通の人間は片腕なくしてそんなに冷静ではいられないんだ。――たとえドールであってもね」


 言葉を詰まらせたその反応に嬉しそうに。男は笑みを強めてまくし立てるように話し続ける。


「君はドールだろう?でなかったら、君が今生きているのに理由がつかない。君の行動にもね」

「そう、だけど、行動?僕、なんかした?」


 海月の返答に男は固まる。しんと沈黙が降りて。幽霊でも見たかのような、焦りをはらんだ分かりやすい驚愕きょうがく


「おぼえて、ないのか?」

「なんの事?」

「……そう、か」


 妙な反応に首を傾げる。顎に手を置き、ぶつぶつと考え込んだ男に構わず口を開いた。


「ねぇ、いっこだけ質問してもいい?」

「ん、ああ、もちろん。どうぞ」

「お兄さん、何者?」

「おっ……と、これは失礼。僕としたことが、まだ名乗ってなかったね」


 んん、とわざとらしい咳払いの後、男は目を細めて笑った。既に、彼の先程の驚愕によるよそよそしさはなくなっている。


「僕は乙帳おとばり燈莉とうり。君と同じドールだ。君は?」


 やっと、自分も名乗っていなかったことを思い出す。


不破ふわです。不破海月かづき

「海月君。いい名だね。失礼を承知で聞くが、君、成人してないだろ」


 探偵チックなその口調と慧眼けいがんに感心する。


「お、よく分かりましたね。バレたの初めて」

「……職業柄、年齢詐称を見抜くのには自信があってね。ほんとはいくつなんだい」

「十八」


 はあ、と驚嘆きょうたんの音。


「すごいな、その歳でヒモか。ワケありかい?言いたくなかったら言わないでいい」

「ワケありっつーか。成り行きです。僕も一人だったから」

「……ほう」

「てか、燈莉さんなんの仕事してんの?」

「うーん、接客と言っておくよ。一旦質問コーナーはここまでにしようか。ここからは真剣な時間だ」


 燈莉はその薄い舌で唇を湿らせる。


「海月君、僕と働く気はないか?」


 部屋が静まり返った。燈莉の青い双眸そうぼうは、じっ、と海月を捉えて離さない。光の届かない深海のような悠然ゆうぜんさをたたえた視線だ。


「接客?冗談……そもそも、僕は人と働くの、向いてないんで」


 海月はその視線から逃れるように顔を背けた。燈莉に向けた方の頬がピリ、と張る。


「そうか。それは残念」


 思わず燈莉を見た。意外だったのだ。感じていた視線から想像もつかないほどさっぱりしている。海月の反応に、やはり燈莉は笑った。


「意外って顔してるね。そりゃあ、初めましての少年相手だ。無理な勧誘なんてしないさ」


 何しろ未成年だしね、と燈莉は付け加える。飄々ひょうひょうとしたその態度に海月の調子は狂わされるばかりであった。ふん、と燈莉はひとつ唸る。


「――だから、今から言うことは僕の勝手な独り言だと思ってくれ。……海月君は二番目だね。兄か姉がいる。僕の勘だと姉かな。そして恐らく、死屍守によって家族とッ」


 硬いベットが軋み、燈莉が短くあえぐ。身を乗り出した海月に首を掴まれて。


 ぐ、と力を込め直して海月は燈莉を睨んだ。片腕を失った故の不格好さのままで身体は震えている。その原因が怒りなのか恐怖なのか、自分では分からなかった。


「……ははは。君には喧嘩の才能があるね。急所を狙うのが上手だ」


 我に返って、海月は握力をゆるめた。首をさすりながら微笑む燈莉のその笑顔が、どうも不気味だった。


「なん、何なんだ、あんた。なんで」

「その反応だと、当たってるみたいだね。僕は観察が好きなんだ。君の口ぶりとか態度からそう予想したよ。君は素直でいい子だね。犬というのも頷ける。ただ……家族の話は地雷だったかな」

「…………地雷じゃ、ない。普通、初対面の人にそこまで言い当てられたらビビるだろ。そんだけだよ」


 海月は不貞腐ふてくされたようにしわのよったシーツをいじった。不可抗力とは言え、未遂でも人の首を締めようとした行為は反省ものだ。


「どこまで正解か聞いても?」

「なんでそんな興味あんの?」

「単純だよ。僕は君が気に入ってる」


 ふたつの視線は交わっていた。しかし目が合っているように思えなくて。自分じゃない、自分にも見えていない、もっと奥深くの何かを見られているような、放任的な支配力。まるでかごの鳥を見るような。果てのない自由へ放した後でなお、立ちはだかる唯一の壁。逃げられないのは明白だ。海月は目を逸らしてから口を開いた。


「ほとんど合ってますよ。あんたの言う通り、僕は死屍守に両親を殺されてる。あの戦争の時だよ。二番目ってのも、姉も当たり。その姉とも今は音信不通。生きてるか死んでるかも知らない」


 機嫌の悪さを隠そうとはしなかった。全部吐いたあとで、なんで分かるんだ、と少しの嫌悪もオマケして。燈莉は黙って聞いていた。あの青い双眸そうぼうは今は伏せられている。


 仕返し、と無遠慮に彼を観察するも、『どっかとのハーフっぽい』程度の幼稚ようちな回答以外導くことはできなかった。はっきりしているくせどこか幼い顔立ちに、年齢すらも定まらない。既に分かっている情報は名前と曖昧あいまいな職業のみ。完敗だった。


「お姉さんとは、いつ別れたんだい」

「母さんが死んだあと。目の前で母さんが死ぬのを、姉さんに抱えられながら見た記憶がある。孤児の施設に一緒に入って、いつだったか姉さんがいなくなった。あとから施設の人に兵役したって聞かされた、気がする。確かそん時十歳。戦争が終わった頃」

「兵役……お姉さんもドール?」

「……違う、と思う。ゲンガーがどうとか言われてた気がするし、僕だってゲンガーとして生きてた。……正直、あいつの顔も声もあんま覚えてない。施設入ってから、一緒にいた記憶もないし。今更探そうとも思わない」

「そうか。……また君を怒らせるかもしれない。今度は締めないでくれよ?」

「なに?」

「嘘だ」

「はあ?」


 また。あの視線に思考が絡め取られる。逃げれない。奥歯に力が入り喉が鳴った。


「嘘だと言ったんだ。現に君は無意識的にお姉さんを追っている」

「――っ」

「自分の顔は自分では見えないから、気が付かないのも無理はない。ただ『飼い主』さんの訃報ふほうを知った君の顔は『ペット』の顔じゃなかったよ。君が『飼い主』さんと関係を持ったのは、その理由の最奥にお姉さんがいたんじゃないか?」


 そんなはずがない。頭に浮かんだのはその否定だった。だが己の口から言葉は出せなかった。自分が今どんな顔をしているのか分からない。燈莉が薄く微笑み、小さな紙を取り出す。手渡されてそれは、黒ベースに白箔しろはくのシンプルかつ高級感のある名刺だった。『AKARI』と中央につづられた特徴的なそれを反射で受け取る。


「君はまだ、お姉さんに……家族に、未練があるだろう。勧誘みたいな言い方になっちゃうけど、僕と来るってんなら、お姉さんを探す手段がある。これは事実だ。もし君にお姉さんを諦めたくないって気が少しでもあるんなら、連絡してよ」

「……って。まさか、姉さんがホストに客として来るって?」

「あっはは、違うさ!もしそうだとしても面白いけどね。ほら、君には特別だ」


 すると燈莉は取り出したメモ帳に一筆し、破いて名刺に重ね置いた。罫線けいせんを無視した数字の羅列られつ


「人気No.1の番号だ。間違っても売らないでくれよ?必ず役に立つ時が来るからさ」

「……金に困ったら助けてもらいます」


 海月は紙ごと名刺をポケットにじ込んだ。勘弁してよ、と燈莉はまたへらへらと笑う。時刻は午前の二時を回っていた。もうこんな時間か、と燈莉は独り言ちる。


「今日は泊まっていくだろう?元気そうだが、その腕で帰らせるほど鬼じゃない」

「ありがとうございます。……けど、帰る。枕変わると眠れないんだ」

「……んふふ、そうか。じゃあ仕方ないね。最寄りは?タクシー代くらい出したげるよ」

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