ショクザイの死屍守
泣鬼 漱二郎
第一章 異食従
『飼い主』、ミユとゲンガーとしての生を謳歌していた海月【かづき】。いつもと変わらぬ日常。しかし突如彼の目の前に現れた死屍守によって、その日常は終わりを迎えてしまうのだった。
第一夜 明日ありと思う心の仇桜
『いいヤツになろうなんて思わない。なれるとも思ってない。僕は最低な僕が大好きだ』 ――
*
夜に染められたヨコハマ。子供たちは寝静まり、大人たちの
「美味しかったね。また来よう?」
「うん。でも僕、ミユちゃんの作るご飯も好きだよ」
そうやって、女に笑いかけてやる。どこか冷ややかに、貼り付けたような笑みの人造さで。そんな様子は、夜の
短い沈黙の後、女は海月の手を引いた。吸い込まれるように二人の影が路地裏の暗闇に沈む。
背伸びした女の、深い口付け。バニラの甘い香水が海月を酔わせる。
「……ね、カヅくん」
「なに?」
「私、疲れちゃった。……ホテル、いこ」
「――うん」
人気のない路地へ自然に溶け込んだ情事の誘い。海月は未だ、どこか無関心だった。
路地を抜け、ゆっくりとした足取りで行くホテル街。ふと、薄明るい闇が深くなった。次に、身体に吹き付ける不穏な風の重たさと――甘く鉄臭い血の匂い。
「――ッぎ、」
生々しい斬撃音と共に短い悲鳴が耳に届く。視界いっぱいに飛び散った赤い何かが、白いシャツに
「……え、」
鈍い
人の形を
すぐ傍で聞こえた呻き声に意識が戻された。女は、苦痛から逃れるように顔を歪めて。彼女の脇腹から流れ出る鮮血は止まる気配もなかった。
「や、いだ、痛い、いたい」
「――っ、喋んないで!今、止血……」
異形がじり、と迫った。血の気が引いていく。冷たい汗が背をなぞり、女の血が腕を伝って地面に赤く染み込んだ。
逃げないと。
状況を理解し始めた脳が思い出したように
徐々に重たくなる女の身体を抱え直し長い闇を抜けた。振り返って、あの異形は追いかけて来ていない。少しの気の緩みの後、人工の明るさに目が慣れた時、そこにあったのはまた
あの異形と同類か、人ならざるバケモノが行き交う人々を
異形は
膝を着いた。死んだ
腕の中で海月の名を呼ぶ力ない声は届かなかった。何も見たくない。何も聞きたくない。あの異形の名を己は知っている。思い出したくない記憶とともに心の奥に閉じ込めていた。
それが、こちらへ意識を向けたようだ。不気味な目に睨まれている。逃げようにも、
「――お兄さん、動くなよ!」
死屍守の腕が目前へ迫ったその時。そう、どこかから声がかかった。次に、頭上を風が切る音が駆け抜け、死屍守がその重量を無視して吹き飛ぶ。
二回の銃声と、死屍守の汚い
「ここは僕に任せて。安全な場所に行くんだ」
優しい声音の忠告。それに解され、女ごと建物の影へ身を隠す。上着を
あたりが
「無事……ではなさそうだ。特に彼女」
やってきた男は目線を合わせるようにしゃがみこみ、シャツで押さえていた患部を手馴れた動きで確認した。長い前髪を下ろした金髪の彼。軽く隠れた光のない
彼は顔を
「……まずいな、
空気が張り詰めていることに気が付かないほど鈍感ではない。だが、海月は女から離れなかった。もっと正確に言えば離れられなかった。女性のものとは思えない握力で、腕を掴まれていて。
「いや、やだ、ぁ……カヅくん……いかないで」
「……ミユ、ちゃん?」
ヒュッ、と海月の喉が鳴る。
女の患部が
「――ッ離れろ!」
異変に気付いた男が怒鳴った、その一瞬の後。蠢いていた患部が膨張し、沸騰したように波打った。
耳を
放心する海月に、粘性を持った血液が噴き付けた。まるで鯨の死体の。現実に処理落ちした脳は思考を放棄し、視界の焦点も定まらない。
男が、焦ったように海月の腕を強く引いた。彼女から引き剥がすように、強引に。それを察知してか、拒むように異形の腕が振るわれて。人ならざるその重量感が、
女だったそれは海月をじっと見つめていた。不気味に肥大した目玉が黒々と、かつての偽りの美を失った、死に
この世界には、大きくわけて二つの人種が生きている。一つは一般である
男はドールであった。彼の副作用により現れた鎖はきつく死屍守を拘束する。
彼は口内で舌を弾けさせた。力が上手く作用しない。あの少年への愛が強すぎる。相性が悪い故に、効かない。それに。そこに少年が居ては、派手な攻撃は巻き込んでしまう。
その鎖が破壊されるのと、男が武器を抜いたのはほぼ同刻だった。
(――まずい、間に合わない)
まるで眼中にもないように攻撃は弾かれて。続けざまの発砲も、何の成果も残さない。
無抵抗の海月を愛でるように。伸びた死屍守の細い腕の先で、
痛みに、反射で起こった抵抗。その圧に耐えられず、
「……いッ」
ばつん、と続いた鈍い断裂音。動けないまま視界に映った夜空。星の見えない明るさの、その中に、海月は引き千切られた腕を見た。死屍守の、機械的で
一拍遅れた鈍痛。音にすらならない悲鳴と、腹に
「お、ぇ」
背中から思い切り叩きつけられ、吐き出した胃液に血が混ざった。深く抉られた腹部と、その奥で、内蔵をかき混ぜられるような不快感に冷えた血液が身体中を駆け巡る。
世界は暗転した。遠のいていく意識の中に死屍守の腐臭が
*
「――ッ、クソ」
液晶越しの相棒を呼びかけて、はたと、違和感に足を止めた。目の前の光景に目を見張る。
片腕を欠損した瀕死の身体だ。なのにも関わらず、ふらつきながら、むくと少年が起き上がって。動けるはずがなかった。まして、生きているはずも。だが少年は、ビタビタと止まらない流血をものともせず、熱に浮かされたように立ち上がる。
「……は、」
スピーカーに設定された通話中のスマホから、相棒が己の名前を呼んでいるのが聞こえて。それにすら構えないほど、男は混乱していた。少年が生きていたことに対してでも、自力で立ち上がったことに対してでもない。そんな事などどうでも良くなるほど有り得ない事象が目の前で。
獣のような唸り声。肉が触れ合うような生っぽい水音。硬い何かが折られる音。死屍守の、断末魔。
少年が、死屍守を喰らっていた。
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