第二部: 夏、カーボン紙の豚脂


 ロンドンはチャールズ二世通りキング・チャールズ・ストリート、貧民窟には繋がっていないものの殺人のあった通りから二つと離れていない。ホワイトチャペルの忌まわしい記憶をまだ誰もが憶えている内にだ、特に8と1/2署の面々は皆その名を思い出した。切り裂きジャックの再来である。署長は部下に出動を命じると横に余した木炭の崩れ端を全てストーヴに入れ(この時代遅れの装置こそ帝都を覆うエンドウ豆スープの原材料に他ならない)、震える手で電報を打った。H管区、至急応援求ム。


 本庁からの応援もあって昼までに遺体は回収され、付近の聞き込みや調査も一通りの目途がつく。現場指揮をしていた巡査部長も切り上げを指示したので、一同は二人の見張りを残すと遺留品をかき集めてから一旦は署に引き返すこととなった。

 彼らが帰ってくる少し前、署には鉄道警察の警視が一人、ロンドン警視庁からも警部が一人やって来ていた。署長は二人を快く出迎える。


「よく来て下さった」

の犯行というのは本当ですか?」

 オードリー・リンドン主任警部はちらとストーヴを確認した、まだ沸いてはいない。膨らんだ水分子が鍋底を軽く叩くだけだ。署長は棚から危なっかしいほどの手つきで秘蔵の白磁のカップチャイナを出してくる。中毒症状が疑わしい、アルコール、特にジンだろうか?

「いや、まさか。模倣犯でしょう」まだ署長は震えた声だった。

「ですが住民を納得させるためにもお二人の協力が必要なのです。何せあなた方は彼を知っている」

「あの頃はまだほんの下っ端でした」

「それでも手口なら良く分かるはずです。人ではなく行為を見よ、というでしょう?」

「聞いたことがないな」パーカー警視は無愛想に呟く、駅構内に住み着いてすっかり慣れた犬と戯れるという日課を邪魔された為である。警視はその犬をひどく重宝していた、鼠捕りに関しては一級品だったからだ。

「ところで、アバーライン警部は?」

「彼は一年ほど前に退職した、残念だがフレッドには期待できない」

「親しいようですな。個人的な質問ですが…」

「大したことではない、在郷陸軍クラブで知り合っただけだ。共通の友人という素晴らしいご縁があったんでね」

 リンドン警部は会話を続ける努力を惜しむ。無愛想の人嫌いが三人の内二人も混じっているのを考慮すれば仕方ないことで、こんな機会でもなければ集まりようもない面子が可笑しいことに顔を突き合わせてしまっている。


 やがて分署に巡査たちが戻ってくる。主任警部が検視官の到着までに内容を検めることを提案すると署長もそれに同意した。持ち物に珍しい物は殆ど無い、数枚のカーボン紙に鉛筆、シガーホルダー、小銭に救世軍のチラシ。

フェニアンアイルランド人か?」

「ああ。だがどこかで見た顔だ、手配書以外でな」警部は傷口を確認する。さっきまで首飾りを掛けていたようた、綺麗に肉ごとこそげ取られている。刃物ではこんな穿ほじり返されたような跡を付けられるだろうか。

「なにか分かりました?」

「所感だが、施術の様がまるで違うな。奴はいたずらに人を切り刻む悪魔だが、食い千切るような真似はしない」

「歯形が採れるか」警視が尋ねる。

「いえ。人の仕業とは思えません、嘴でついばまれたような…」

 リンドン警部は何気なくチラシを広げてみる、四つ折りの内には同じモノが三枚も折り込まれてあった。一枚目は何もなし。二枚目はユダヤ人への低俗な恨みつらみで汚され、三枚目には細かな字で書き留められた数行があった。


「えらく神経質な字だな」小文字の“e”をしっかり書き分ける癖に“t”はいい加減だ。最初の一文字を勢い余ったのだろう、大きく書いてしまった所為で全体のバランスはぎこちない。



 鴉。

 意気消沈。

 意気消沈した私の下へ鴉がやって来て、気が付くと鴉が止まった先に私が居た。

 どうやって部屋に入ってきたかを尋ねると、ただ反射する。ただこれだけOnly this, nothing more


 NEVERMORE!是より先はなし



「底意地の悪い」

「これを死に際に書いたのか?」

「少なくとも、には書けんでしょうから」

 そうしているとトコトコ、と軽い破裂音とともにブリキのやかんは自分の支度が整ったことを知らせる。同じような音をさせて(他の使い道もないガソリンエンジンとやらだ)、海を渡って来たのはアメリカ製の馬無し馬車である。

 検視官と運転手の顔は排気除けのゴーグルのお陰ではっきりとは分からなかった。

 


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