とんでもない事実を聞いてしまった

「ねえ、今回の聖女であるサンザシ様ってどんな方なの?」

「聖者様です」

 ウィルは丸眼鏡を指で持ち上げながら答えた。

「呼び方なんてどっちでもいいじゃない。皆、聖女って呼んでいるんだから」

 彼は厳格な手段を踏んで召喚された存在だ。教皇によって聖者として認められている。 しかし、アイディールでは聖女信仰が根強く、男性の聖者を受け入れない人々も多い。そのために男性である彼のことを頑なに「聖女」と呼ぶ者が多いようだ。

 大聖堂の奥にある隠された場所。特定の人間しか足を踏み入れることのできない聖域は、今日も静寂に包まれている。

 小鳥のさえずりと葉のさざめき。木々の間から漏れる光が地面を照らしていく。

 この美しい光景は、誰もが憧れるものだと言われているが、リーリャにとってはただの退屈な日常に過ぎない。

 生まれた時からこの場所にずっといるため、日々の会話は読んだ本の話や食事の話、天気の話ぐらいしかない。

 しかしそこに最近、新たな話題が加わった。

 それが聖女――いや、聖者様のことである。

「彼は何事にも真剣に取り組む方ですよ。控えめな性格で、リーリャとは正反対ですね」

「それって私が不真面目で、おしとやかじゃないって言いたいわけ?」

「そうは言っていませんよ」

 ウィルはにこやかな笑顔で返す。

 彼の笑顔には皆、魅了されてしまうのだ。

 しかし、リーリャは見逃さない。丸眼鏡の奥に潜む鋭い眼差しは、いかにも胡散臭そうに細まっている。

「とにかく人を傷つけることには向いていなさそうですね」

「聖女様が人を傷つけたら大問題でしょう。まさかウィル、変なことを教えていないわよね?」

「変なこととは?」

「暗殺術」

「リーリャ様じゃありませんし、私がそんなことを教えるわけないじゃないですか」

「私ならいいってわけ」

 不服そうに口を尖らせてみたものの、ウィルは落ち着いた顔で、リーリャの空になったティーカップにおかわりのお茶を注ぐ。

 彼はリーリャのお目付役兼教育係として、幼い頃からずっとリーリャの側にいた忠実な従者のような存在だ。しかし、今回は召喚された聖者であるサンザシの教育係に任命され、最近では彼に専念していた。

 ウィルが暇を見つけて自分に会いに来てくれたことは、リーリャにとってはとても嬉しいことだ。

 なぜなら、ウィルが淹れてくれるお茶は、他の誰が淹れてくれたものよりも絶品だからだ。

 また、リーリャは生まれた時から聖域での軟禁生活を強いられており、ウィルは唯一の話し相手であり、兄のような存在でもあった。

 だからこそ、ウィルがサンザシに取られてしまったことに対して、リーリャは微かな嫉妬心を感じていたが、それを口にすることはできなかった。

 リーリャは腰まで伸びた黒髪を指に巻き付けながら、ずっと気になっていたことをウィルに尋ねた。

「でも聖者様は、三年の教育期間を待たずにミステル王国に行くんでしょう?」

「ええ、彼は男性なので特例としてそうなったようです」

「それでも、ミステル王の正妃として扱われるの?」

「慣例的にはそうなりますが、男性の聖者が現れたこと自体が初めてのことですから、具体的な扱いはまだ分かりません」


 アイディール教皇国とミステル王国の関係は、古くから続いている。

 五百年以上前、アイディール教皇国は特別な儀式を通じて聖女を召喚し、その聖女をミステル王国の国王に献上することを決めたのだ。


 大陸は東のロンギング帝国、西のトラスト共和国、南のアイディール教皇国、そして北のミステル王国の四国に分かれている。

 ミステル王国は大国トラストと帝国ロンギングに挟まれており、その立場は弱い。しかし、アイディール教皇国との友好関係を築くことで、国を存続させてきた。

 アイディールも召喚した聖女をミステル王国に献上することにより、王国から武力の提供と後ろ盾を得ている。

 立場の弱いミステル王国が教皇国と手を組んでいることで、共和国と帝国は迂闊に攻め込むことができないのだ。

 アイディール教皇国は召喚の技術を独自に保有している。聖女を召喚するためには高位聖職者の力と特定の場所、時期など、多くの条件が必要とされた。


 他国でも聖女召喚の儀が行われたことがあるが、全て失敗に終わっているという噂が広まっている。聖女召喚はアイディールの地でしか成功しないとされ、その条件は外部には秘密とされていた。

 アイディールは過去に何度も侵略の危機に直面してきたが、ミステル王国との同盟により、最近は侵略から免れている。

 聖女は一人いるだけで戦況を覆すほどの力を持っている。

 彼女たちは戦う力は持たないが、癒やしの力に長けており、神々が起こすような奇跡を何度も起こしてきたのだ。

 小さな教会騎士団しかないアイディールが大国と渡り合うことができるのは、聖女の存在が大きいからである。

 しかし、今回召喚された聖女は、過去に例を見ない「男性」だった。

 このような事例は過去になかったため、国内は大混乱に陥った。

 男性でも聖女の力を使えるのか。

 また、聖女はミステル王に献上され、正妃となることが慣例となっている。男性である場合、都合上問題が生じる可能性がある。

 もしミステル王が男性の聖女を受け入れることを拒否すれば、アイディールはミステルの後ろ盾を失い、大国と帝国に侵略の機会を与えることになるのだ。

 ミステル王国としても聖女の力を失うのは痛手であるはずだ。そのために、今回の聖女召喚の儀全てを取り計らった教皇エフォールは、ミステル王国とのやり取りに心を砕き、細心の注意を払いつつ交渉を進めてきた。

 通常なら召喚から三年間、聖女はアイディールで力の使い方や作法などの教育を受けることになる。しかし、交渉の結果、王国側は「今すぐに聖女を献上せよ」と要求してきたのだ。

 そこに何の意図があるのかリーリャには分からない。

 そして、教皇はその条件を呑んだのである。

「まさか、出発の儀を見に行こうだなんて思っていませんよね?」

「バレたか」

 聖者をミステル王国に献上するための出発の儀は明日に迫っていた。

「ダメですよ。もしもあなたの存在がバレたら、エフォール様に大迷惑がかかります」 しかし、リーリャはずっと聖女様に憧れていたのだ。

 過去の聖女たちについて記された本には、見知らぬ地に召喚された彼女たちが様々な苦難に立ち向かいながら、ミステル王と心を通わせ、国を守るために力を尽くす姿が描かれている。

 彼女たちは常に気高く、美しく、時には可憐な存在だった。

 聖女の証しである長い黒髪が神秘的に揺れる光景に、女性たちは心を奪われるのだ。

「でも、ウィル、聖女様の姿をまた見たいのよ。その美しさに触れてみたいの」

 リーリャは力強く語るが、ウィルにはなかなか理解してもらえない。

「お父様も私の存在を知られたくないのだったら、私をいつまでもこんなところに匿っていないで、さっさと市井しせいに放り出せば良かったのに」

「リーリャ様を一人で外に放り出すのは無理でしょう」

「どういう意味よ、それ」

 ウィルに肘打ちを仕掛けようとしたが、あっさりと止められた。

「そういうところです」

「誰のせいよ、全く」

 リーリャは、大聖堂の聖域で育てられたため、外の世界に慣れていなかった。彼女の存在を知る者が増えることは、彼女の安全を脅かす可能性があるからだ。

 ウィルは、リーリャの身を案じているのだろう。

「でも、もう少し自由にさせてくれないの?」

 リーリャは不満げに言った。

 ウィルは考え込んだ後、優しく微笑む。

「リーリャ様、私たちはあなたの安全を最優先に考えています。もう少し時間が経てば、あなたが外の世界で自由に生きることができるようになるでしょう。それまでは、お父様の決断を信じてお待ちください」

 しぶしぶ頷いたが、内心ではまだ不満が残っていた。

 リーリャは自分の力で自由を勝ち取りたいと思っていたのだ。


 ウィルには止められたが、リーリャはおとなしくしているような性格ではなかった。

 こうなったら直談判である。

 彼女は心を決め、父である教皇の部屋へと足を進めた。

 本来、聖域に閉じ込められているリーリャが足を踏み入れることは許されていない。 もし誰かに見つかれば大問題だろうが、リーリャは我慢できなかった。

 明日の出発の儀式を見るために、彼女にとっては人生を賭けるほど重要なことだった。

 聖域から飛び出し、マリーゴールドの庭園を横切って大聖堂へ向かった。

 裏口からこっそりと忍び込み、人の気配を探りながら聖堂内を進む。

 リーリャはもともと誰にも見つからずに抜け出すことが得意だったが、ウィルから人の気配を探る方法を教わってからはさらに磨きがかかった。

 しかし、今回は人の気配を読む必要はなかった。明日の儀式の準備に追われていて、聖堂内は静寂に包まれていた。見張りの姿すら見当たらない。

 大聖堂の西側にある塔から、父の住む宮殿に繋がっている。

 父の部屋の前に立つと、リーリャは荒い息を整えるために深呼吸をした。呼吸が落ち着くまでに五度、吸って吐いてを繰り返す。

 ドアをノックしようとした時、部屋の中から話し声が聞こえてきた。

 リーリャは耳を澄ませ、その声を聞き取ろうとする。声は男性のもので、父の声ではない。誰かが父と話しているのだろうか。

「教皇陛下、男性聖女の召喚により、我々の立場が揺らいでおります。信者たちは混乱しており、聖女信仰の根幹が揺らぎかねません」

「確かにこの事態は予想外であり、私たちの信仰にとって大きな試練となるでしょう。私はもう間もなく、男性聖女召喚の責任を問われ、教皇の座から降りることになるはずです」

 リーリャは驚愕した。父がまさかそれほどの窮地に追い込まれているとは全く知らなかったからだ。

「そんな……それならリーリャ様はどうされるおつもりです」

 突然自分の名が出てきて、心臓が跳ねる。気配を慎重に消しながら、会話の流れを追った。

「貴方も承知のことですが、あの子の母親はミステル王国に献上された先代の聖女でした。聖女の力は遺伝するものではありませんが、私の過ちがあの子に外の世界を見せることも出来ないまま聖域に閉じ込めることになった。ですが、私が教皇の座を退けば、もうあの子を聖域に匿うことはできないでしょう」

「それなら……」

「貴方にお願いがあります。我が友、ゴーヴァン」

「はっ」

「あの子の次の住まいはアイディールの辺境に用意してあります。そこは辺鄙な場所ですが、何不自由なく暮らせるでしょう。貴方にはあの子をそこまで送り届けてほしいのです」

「……承知致しました」

 会話が途切れ、リーリャは慌てて部屋の前から離れる。

 足取りは重く、ようやくマリーゴールドの庭園まで辿り着いたとき、急に力が抜けた。

 そしてそのまま崩れ落ちるように、美しい花々の中に座り込んでしまった。




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