憧れの聖女様が男性だった


 魔法陣から溢れ出す輝き。漆黒の髪が宝石のように輝く。

 十二使徒の祈りに応え、聖女が舞い降りる。

 女神アーテルの力を宿す選ばれし者。

 世界の調和を守る調停者として。


 リーリャは今、幼い頃から夢見ていた光景を目の当たりにしようとしている。

 聖女召喚の儀が行われる場所には、普段立ち入ることができない。このが開放されるのは、なんと二十年ぶりのことだ。

 手に汗を握りしめる。荒く乱れる呼吸を必死に抑えながら、一瞬たりとも見逃さないように、目を見開く。

 もし今の顔を誰かに見られたら、顔を青ざめさせて逃げ出したくなるほどの緊張を抱えていた。

 何度も何度も繰り返し読んだ憧れの舞台を、目に焼き付けようとする。

 今回、召喚の儀を執り行うのは、アイディール教皇国の教皇エフォール。

 これは秘密の話だが、リーリャの父である。

 静寂に包まれた空間で、リーリャは柱の陰に身を潜め、息を殺している。

 一瞬でも気を抜けば、鼻息で顔を隠しているベールが揺れてしまいそうだ。

 この場所は、大司教以上の地位を持つ者しか立ち入ることが許されない。もしリーリャがここにいることがばれたら、大変なことになるだろう。

 最悪の場合、投獄されてしまうかもしれない。

 それでもリーリャは聖女召喚の儀を、どうしても自分の目で見たかった。それにはどんな代償を払っても構わないと思っている。

 リーリャにとって、聖女はただの物語の中の存在ではない。

 聖女は永遠の憧れの対象なのだ。

 父エフォールが壇上で祈りの言葉を捧げている。

 そのすぐ横で真っ赤な聖職服を身にまとった枢機卿ベルセが威厳を持って杖を掲げていた。

 大司教たちは円を作り、膝を折って一様に祈りを捧げている。

 リーリャが幼い頃から愛読していた聖女伝説の光景そのものだ。

 感極まって涙が出そうになるのを堪えていたら、肩にポンと何かが触れた。

 思わず悲鳴を上げそうになったが、口をすぐに塞がれてしまう。おかげで投獄の危機を免れることができた。

 恐る恐る振り向くと、祭服姿の青年がいつの間にか背後に立っていた。

「リーリャ様、戻りますよ」

 彼は穏やかな口調で言うが、丸眼鏡の奥に笑みは見当たらない。

 美しい露草色の髪も、まるで氷の世界からやってきた使者のように見える。

 見た目はただの好青年だが、目が細まると殺気を放たれているように感じてしまう。

 彼はウィル。リーリャのお目付役であり、監視役でもある。

 リーリャが勝手に離れを抜け出したので怒っているのだろう。彼の顔に全く表情がないことが余計に恐ろしい。

「お願い、ウィル。見逃して」

「ダメです。誰かに姿を見られたらどうするつもりですか?」

 ウィルは厳しい口調で言った。

「だから、修道服を着てきたのよ。髪は頭巾で隠しているし、顔もベールで見えないでしょう」

 リーリャは必死に説明する。

「そういう問題ではありません」

 ウィルの呆れた声に重なって、杖で床を叩く音が響いた。

「見て、お父様の杖が光り出したわ」

 召喚の儀の準備が整ったようだ。

 ウィルに気を取られている間に、リーリャは儀式の一部を見逃してしまったことを後悔した。

「これは一生恨んでやるんだから」と彼の足を軽く蹴り、儀式に集中する。

 床にはすでに魔法陣が浮かび上がっていた。そして、そこからまばゆい光が噴き出すように溢れ出していく。

 リーリャは息を呑んだ。

 聖女伝説は実話を元に描かれたものだ。

 ウィルが腕を引っ張ってくる。

「戻りましょう」

「いや、お願い。せめて聖女様を一目、拝ませて」

 この機会を逃したら、もう一生聖女召喚の儀をこの目で見ることは叶わないだろう。

 だって聖女召喚は、先代の聖女様が亡くなった時にしか行われないのだ。

 一つの時代に聖女は一人。

 時代の変わり目である召喚の儀に当たることなんて、一生のうちに一度あるかどうかも分からない。

 必死に踏ん張ってウィルの力に抗う。

 目を開けていられないほど強い光が聖堂内を満たしていった。

 何一つ見逃したくないのに、あまりの眩しさに思わず目を瞑ってしまう。

 瞼にぶつかってくる光は、日差しのように温かい。

 目を閉じていても分かる光の気配がようやく薄まった頃、リーリャはそっと目を開けた。

「見て、ウィル」

 先ほどまで誰もいなかったはずの魔法陣の上に、突如として人の姿が浮かび上がった。

 聖女伝説に語り継がれる召喚された聖女は、漆黒の髪を宝石のように輝かせながら、その場にいる者たちを圧倒させる。

 その表情は戸惑いを含みつつも、神々しさに満ち、ステンドグラスのような優雅さを放っている。

 彼女の姿を見た者たちは、聖なる力の引力に導かれるようにこうべを垂れるのだ。

 リーリャは本の一節を思い出しながら、夢にまで見た聖女の姿を目に焼き付けようとした。

 言い伝え通り、今回の聖女も美しい黒髪を持っている。

 しかし、リーリャが想像していたように髪をなびかせているわけではなく、髪は耳の横で短く切りそろえられていた。

 戸惑いは見受けられるものの、リーリャが思い描いていたような華奢な雰囲気はなく、細身ではあるが、衣服から覗く腕は意外とがっしりとしている。

 聖女(?)は驚いたような表情で、キョロキョロと周囲を見回している。

 中性的な顔立ちで、圧倒的な美人とは言えないが、誰もが魅了される容姿を持っていた。見た目からは男性か女性か分からないが、身に纏っている衣服と体のラインは男性的だ。

 歓声はすぐにどよめきに変わっていった。

「男だ……」

 その一言が誰かによって発せられ、口々に言い合う声が広がっていく。

「男性が聖女になるなんて」

「どうして男が」

 リーリャもその流れに呆然としていた。

「聖女って男の人でもなれるのかしら」

 荘厳な空気は一瞬で崩れ、騒然とした緊張感が広がっていく。

「私には記憶がありません」

 こんな時でもウィルは冷静だった。

「静粛に」

 教皇の厳粛な声が響き渡る。

 場は一瞬で静まり返った。

 召喚された聖女を取り囲む輪が一瞬で割れ、道が開かれる。

 エフォールは壇上から降り、その道を進んで魔法陣の中央に立っている人物の前で立ち止まった。

 召喚された人物はリーリャと同じくらいの年齢だろうか。彼の顔には幼さとも大人びた雰囲気とも言い難い魅力が漂っている。

「ようこそおいでくださいました。聖女様」

「聖女? 誰が?」

 聖女は首をかしげる。

「あなた様でございます」

「俺が聖女だって?」

 聖女の顔に驚きが浮かぶ。神々しさなど微塵も感じられない。むしろ、どこか抜けた表情が彼を魅力的に見せていた。

「でも、俺は男ですよ」

 その一言が響くと、ざわめきが再び広がっていった。

「では、尊き聖者とお呼びしましょう」

 周囲の人々が混乱のままに動揺する中、教皇エフォールだけは一切動じなかった。

「聖者? いや、俺の名は山査子です」

 どこか的外れな聖者の返答に、エフォールは温かな笑みを浮かべた。

「サンザシですね」

 聖女が男であったことに僅かながら落胆していたリーリャだったが、聞き慣れない名前の響きに興奮が再び湧き上がってきた。

 エフォールは手にした杖を、ステンドグラスの光が降り注ぐ天井に向けて掲げ、宣言する。

「我らが十二使徒の導きにより、ここに新たな聖者、サンザシの召喚が成し遂げられた」

 疎らな拍手が響く。歓声に混じるざわめきは歓迎的なものではない。

 まだ先の展開を見届けたかったが、リーリャは今度こそウィルによって召喚の間から引きずり出されてしまった。

 儀式が終われば、皆の注目は聖者から逸れ、外部の者の入室に気づかれる可能性が高まる。ウィルはそれを心配したのだろう。

 リーリャは諦めてウィルに従う。彼が本気でリーリャを連れ戻そうとすれば、抵抗する術もないことを知っている。

 それに、父に迷惑をかけるわけにはいかない。

「ねえ、見た?」

「見ました」

「聖女が男だったってこと、過去にもあるの?」

「私の知る限りでは、ありませんね」

 ウィルは博識で国の歴史に詳しく、歴代の聖女についても詳しい知識を持っている。

 その彼が言うのだから、間違いはないだろう。

「そもそも男性が召喚された場合、聖女として扱われるのかしら?」

「それは……」

「ウィルでも分からないことがあるのね。まあ、いいわ。お父様に見つからないうちに離れに戻りましょう」

 急いでいつもの抜け道を通り、大聖堂の奥にある離れに戻る。

 マリーゴールドの庭園の裏側。高い塀に囲まれた聖域がリーリャの住まいだ。


 リーリャ・エストレラ・アイディール。


 アイディール教皇国の現教皇であり、強力な力を持つエフォールの隠し子でもある。

 アイディール教皇国では聖職者は結婚を許されていないが、実際には結婚せずに子を持つ者が多く存在している。

 ただし、その存在は表向きには隠されていた。

 リーリャもまた、教皇の体面を保つために表立っては存在を隠され、ほとんど軟禁状態で育てられた箱入り娘だった。

 普通なら出自を隠して養子に出されることが多いが、リーリャにはもう一つ体裁の悪い特徴がある。

 リーリャは指に髪をくるくると巻きつける。

 聖女のような、とまでは言わないまでも、毎日欠かさず手入れをしている髪は、どんな色にも負けない漆黒だった。

 黒髪は聖女の証しであり、この世界には存在しないものだと言われている。

 だからこそ、リーリャの存在が広まれば、教皇が聖女と不義を働いたと誤解されかねないのだ。

 召喚された聖女は、ミステル王国への献上物として捧げられる運命にある。

 しかもミステル王の正妃となることが定められているのだ。

 そのために不当な疑いをかけられることを父は恐れていた。

 養子に出すこともできず、結局は教皇自身がリーリャを大聖堂の離れにある聖域に軟禁することで保護していた。そのため、リーリャの存在は教皇の側近にしか知られていなかった。

「考えてみれば、聖女が男性だったっていうのはとても珍しいことよね。これはかなりの歴史的瞬間に巡り会ったんじゃない?」

 リーリャは興奮しながら言った。

 ずっと夢見ていた聖女召喚の儀とは少し異なる展開ではあったが、それでもこれは歴史的な出来事であり、価値のある瞬間だと感じる。

 ウィルは無関心そうに溜め息をついた。

「まあ、そうかもしれませんね……」

 彼の感動の欠如には不満があるが、今はそれにケチをつける余裕はない。

 リーリャは胸の前で手を組み、うっとりと先ほど目の前で起こった召喚の儀を思い出す。

 あの素晴らしい光景を決して忘れるまいと、何度も何度も心に刻みながら。新たな聖女の降臨に心からの祝福を捧げるのだった。

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