第10話 りんご
初心者講習を終え、ギルドを出たハルオ。
とりあえず、街を歩いてみることにした。
冒険者にはなれたが、この世界のことは何ひとつ知らない。
石畳を踏みしめる足音が、遠くで鳴る鐘の音に溶けていく。
夕暮れ時の街は、やわらかなオレンジ色に染まりはじめていた。
通りの脇では、果物を売る屋台が威勢よく呼び込みの声を上げている。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗り、腹の底をくすぐった。
木製の剣を振り回す子どもが走り回り、屋台の店主に叱られている。
冒険者の世界とはまるで異なる、“普通の暮らし”がそこにあった。
「すいません。この果物、ひとついくらですか?」
「リンゴかい? なら1つ銅貨1枚だよ」
「じゃあ、ひとつください」
ハルオは腰の袋から銀貨を1枚取り出し、手渡した。
「まいどあり! お釣り、銅貨9枚ね」
店主は、赤く艶のあるリンゴを布で拭き、丁寧に差し出してくれる。
(ってことは、銀貨1枚が銅貨10枚か……感覚的には、銅貨1枚が百円ってとこかな)
日本では何気なく行っていた“買い物”が、この世界では妙に新鮮だった。
なにより、自分が命懸けで稼いだ金で、初めて買ったものだ。
リンゴにかぶりつくと、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。
うまい――それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「お兄ちゃん、冒険者? かっこいい剣、持ってる?」
いつの間にか近づいていた子どもが、興味津々にこちらを見上げている。
「ああ……でも、おじさん、ボロいナイフしか持ってないんだ」
「ふーん。お兄ちゃんなのにおじさんなの? じゃあ今度、魔王倒したら教えて!」
子どもは笑いながら駆けていった。
(つい癖で“おじさん”って言っちゃったけど、俺、見た目は若いんだった。それより――魔王、か)
漫画やゲームの中だけの存在だった言葉。
けれどこの世界では、それも現実になりうる。
自分は今、その物語の“はじまり”に立っているのかもしれない――そんな気がした。
「さて……宿を探さないとな」
ギルドの宿舎に泊まることもできるが、初心者講習を終えたあとは有料になる。
一泊、銀貨1枚。悪くはないが、他の選択肢を知っておくのも悪くない。
そう思い、街を歩きながら宿を探すことにした。
空はすっかり茜から紫へと変わり、路地の影が濃く伸びていく。
そんな中、小さな木造の看板が目に留まった。
《宿屋 ムーンライト亭》
一泊:銀貨3枚(朝食つき) 冒険者歓迎!
(……銀貨3枚。今日の稼ぎが銀貨5枚。残りは銀貨1枚と銅貨9枚か)
泊まれなくはない。だが、明日何も稼げなければ、すぐに詰む。
まだこの世界での物価感覚は曖昧だが、節約すべき時だということはわかる。
(ギルドの宿舎に戻るか、それとも……)
一瞬、足が止まる。
けれど、選ぶのは自分だ。
誰も指示はしてくれない――これはもう、“自分の冒険”なのだから。
考えた末に、ハルオは踵を返し、ギルドの宿舎へと向かっていた。
背伸びするにはまだ早い。
稼ぎを使い切って飢えるより、確実に寝床を確保すべきだ。
今の俺にとって、冒険はロマンじゃない。
生きることそのものだ。
ギルドの建物は夜の帳の中でもひときわ明るく、
扉を開けると、温かなランプの灯りと木の軋む匂いが迎えてくれた。
受付の初老の男が、目元だけで笑う。
「講習、無事に終えたか。おめでとう、新米さんよ」
「はい。あの、宿舎に泊まりたいんですが……銀貨1枚、でしたよね?」
「確かに。部屋は空いてる。鍵はこれだ」
男は手慣れた様子で鍵を取り出し、机の上に置いた。
「知ってるとは思うが、朝食は明け六つ(午前六時)に食堂でな。
あんたみたいな新顔は、朝飯のほうが大事だぞ。まずは体を作らなきゃならん」
「……ありがとうございます」
礼を言って鍵を受け取り、石造りの階段をゆっくり上った。
見慣れた部屋に入り、戸を閉めてベッドに腰を下ろした瞬間、安堵が胸に満ちた。
(こういうの……何年ぶりだろうな)
誰にも邪魔されない、自分だけの空間。
狭くても、異世界でも、“帰る場所”があるという感覚。
ナイフの鞘が、かすかに土と血の匂いを放っていた。
(このナイフ、どうにかしないとな……)
指先で刃をなぞりながら、今日の出来事が脳裏に浮かぶ。
レッサーボア。セイランの花。ゴブリン。
そして、あのリンゴの味。
すべてが――現実だった。
布団に横たわると、疲れが一気に押し寄せてくる。
けれど、ただの“疲労”ではなかった。
生きた証。動いた実感。得た対価。
目を閉じる前、窓の外にはいくつか星が浮かんでいた。
この空の下で、自分は確かに生きている。
(明日ギルドの掲示板でも見てみるか。まずは金を稼がないといけない。
でもそのためには――強くならなきゃいけない)
昨日の講習で聞いた「魔力循環」という言葉を思い出していた。
体の中を流れるエネルギー――それを“魔力”と呼び、
使い方次第で常人とは比べものにならない力を発揮できるという。
(意識して、体の中心に……って言ってたな)
ベッドに横になりながら深呼吸をし、
静寂の中で目を閉じる。意識を内側へと沈めていく。
(……ここか?)
腹の奥のほうで、わずかに“何か”が熱を持っている感覚があった。
呼吸に合わせて、かすかに脈打つ光の粒のような――。
ゆっくりと息を整え、その光を意識で掬い上げる。
すると、温かい流れが喉から胸、腕へと広がっていった。
血液よりも軽く、空気よりも重い、不思議な“流体”。
(確かに……流れてる。)
そう思った瞬間、体の奥がぽうっと温かくなった。
血の流れとは違う。けれど、確かに自分の中を“何か”が通っていく感覚。
それは心臓の鼓動に合わせて静かに波打ち、
まるで「生きている証」を体の内側から示してくるようだった。
(体の中心に……集めて……)
意識を腹の奥へと沈めていく。
やがて、胸の鼓動と一体になったような、柔らかな“核”を感じた。
そこに呼吸を合わせるように、ゆっくりと魔力を流す――。
体の隅々まで、微かな熱が走る。
重いまぶたの向こうで、かすかな光が瞬いた気がした。
(……なるほどな。これが魔力循環ってやつか……)
不思議と体が軽い。
心拍がゆるやかに落ち着き、意識はまどろみに溶けていった。
(明日は……もう少し、使いこなしてみよう……)
そう願うように呟いたあと、ハルオの意識は静かに眠りへと落ちた。
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ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
一つひとつの☆やフォローが、次の物語を書く力になります。
これからも毎日投稿を続けていきますので、どうか見守っていてください。
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