8-06
机に向かって何やら面倒臭そうに書類を片付けている女性が、今しがた己の部屋に入ってきた存在に気が付いた。
「皆月彩音か。どうした? 余の退屈しのぎにでも付き合ってくれるのか?」
気だるそうにしていた貴婦人の姿のアスモデウスが、身を乗り出して尋ねてくる。少しだけ勢いに圧された彩音だが、おずおずと躊躇いがちに用件を口にした。
「あの……私、お別れを言いにきたんです」
その一言でアウモデウスが、ふむ、とあご先に指を当てながら、何やら考え込む。
「なるほどの。失ったモノを取り戻したか」
彩音が口にせずとも、アスモデウスは事情を察したようだ。続く反応を待っていた彩音に向けて、アスモデウスは突然真顔になり、地の底から響くような低い声を発した。
「……タダで帰してやると、思うてか?」
アスモデウスの瞳が異様な鋭さを見せた瞬間、彩音の背中に嫌な汗が滲む。この万魔殿の主である大悪魔が求めるのは、一体何の代償だというのだろうか。
と、次の瞬間、アスモデウスは口元をにやりと歪め――
「……くっ、ふははっ、冗談じゃ、冗談。汝の勝手にすれば良い。ここに留まるも、己の元いた世界へと帰っていくも、全ては汝の自由じゃ」
その言葉で、ほっ、と胸を撫で下ろして俯いた彩音に、アスモデウスは一言付け加えた。
「悪魔は自由の象徴じゃ。それが自由の権利を奪うことなど、ありはしない。覚えておくがよい、皆月彩音――例え汝がまたここへ訪れることになろうと、余は――万魔殿は、汝を何度でも喜んで迎え入れるであろうぞ。くくっ」
若干の皮肉を孕んだ言い分に、彩音が俯けていた顔を上げる。そこにいた大悪魔は、どことなく人の良さそうな老婆の姿に変わっていた。
「まあ、失ったモノを取り戻した汝の前途を祝して、もう二度と此処へは訪れんで済むよう祈ってやろう。くくっ……傍観しておるばかりで何もせぬ《神》のそれと比べれば、よほど御利益というものがあろうぞ。大悪魔のお墨付きじゃ」
冗談とも本気ともつかないような発言に、彩音は複雑そうな顔をしながら、そっと踵を返して立ち去ろうとした。
「それじゃ、あの……私は、これで。本当に、ありがとうございました」
「うむ、達者での」
何ともあっさりとした別れだ、と彩音は心の中でこっそり思う。何も要求されず、それどころか失っていた《希望》さえ取り戻して、本当にこれで許されるものなのだろうか。
アスモデウスは、一体何が目的でこのようなことをしているのだろう。結局、彩音には最後まで分からなかったし、一生かけても分からないような気もする。
扉の前まで来た彩音は振り返って、アスモデウスに目を向ける。今は好奇心旺盛そうな美しい少女の姿をしているアスモデウスは、彩音と目が合うと――にこりと微笑んでみせた。
最後にもう一度だけ頭を下げてから、彩音は部屋を出る。
――なんとも不思議な人だ。いや、人ではないのか――
アスモデウスが何を求め、何のために万魔殿の主などやっているのか、そんなことは解るべくもない。もしかしたら、明確な理由など存在しないのではないか。気まぐれだし、やはり適当なのだ、あの大悪魔と名乗る彼女は。
ああ、だけど――それでも彩音が、彼女に対して何か言うべきことがあるのなら、やはり一つしかなかったのだろう。
――ありがとう、と。
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