8-05

「あなたも今まで、ありがとうっ!」


 大男もナナシも時が止まったように、ぽかん、として立ち尽くしていた。声を発した彩音でさえ、自分が今しがた放った言葉の意味を、掴みきれていない。


 それはまあ置いといて――と彩音が、気を取り直して踵を返す。


「……さっ、ナナシくん、逃げましょ!」


 走り出した彩音に、ナナシは慌ててついていきながら、不満の混じった声を上げる。


「おねえちゃんってさっ……時々、突飛なことするよねぇ!」


「ナナシくんに言われたくないわよっ!」


「グォッ! グルゥ……ゴォオアァオォォオ!」


 改めて追いかけてくる大男の咆哮を聞きながら、彩音はぼんやりと考える。


 こうして追い掛け回されている時間は、果たしてそんなに? などと。


 どうかしているのかもしれない、とも彩音は思う。だけど今は前ほど怖くなくなっているし、あの大男にも何か事情があるのだと思うと、なんだか切ない気持ちになることもある。


 それに、こうして追いかけられている時は、何もかも忘れていられたような気もする。怖い思いが先走っていただけだろうが、それでも夢中で逃げ回っていたものだ。


「……あははっ」


 ――彩音は走りながら、思わず失笑した。


 こうして追い掛け回されて、怖い思いをしたのは確かだが、そんな日々だって、それほど悪くはなかったのかもしれないな、と。


「グルォアァァアボォォォ!」


 ……それも、まあ、今まで捕まった記憶がないから言えることかもしれないが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る