8-03
奥には厨房へと続く扉が見える、広い客間のような部屋。そこでただ一人、黙々と掃除をしている、使用人の服を着込んだ美女がいた。
美しく煌めく銀髪を揺らしながら、手際よく掃除を続けるその女性へと、彩音はおもむろに声をかける。
「リリエラさん、おはようございます」
「おはようございます、彩音様」
一切の間を置かず返答がくるのにも、もう慣れたものだ。初めは戸惑っていた彩音も、今ではすっかり馴染んでしまっている。
挨拶を終えるとすぐ掃除に戻ってしまったリリエラに、彩音は再度話しかけた。
「あの、リリエラさん。ちょっと、いいですか?」
「はい、彩音様。なんなりとお申し付けください」
そう言ってすぐさま向かい合ってくるリリエラに、慣れてきたとはいえ、さすがに彩音も言い辛くなってしまう。なにせ普通なら、変だ、と言われても仕方ないことを言おうとしているのだから。
だけど彩音は、決心した。言わずに後悔するのは、二度とごめんだ。
彩音は呼吸を整えてから――勢いよく、口を開いた。
「あのっ、私と――笑顔の練習、しませんかっ?」
「…………?」
返事もなく首を傾げている時は、どう反応すればいいか分からない、という時だ。
リリエラは《心》を失って自発的に行動をしないため、彩音が何も言わなければ、向かい合ったままで、いつまでも立ち尽くしているだろう。
突飛なことを口走ってしまったと慌てる彩音の口は、取り繕うように続きを述べる。
「あ、えっと、ほらっ、リリエラさんって、その、美人なんだから、笑わないともったいないんじゃないかなって……じゃなくて、ええと」
――違う。こんなことが言いたいのではない――
だけど、上手く言えない。リリエラは過去の自分を語る時、自身を不器用な女だと言っていたが、彩音も負けたものではないようだ。
「だから、えっ、と……」
取り留めのない言葉を並べ続けていた彩音の口が、不意に止まる。
ここへ来て、今さら何を遠慮する必要があるのだろうか。
彩音は一度、大きく息を吸い込んだ。そしてもう一度、改めて口を開いた。
「私がここへ――万魔殿へ来ることになったのは、右腕の自由を失って、それで《希望》を無くしたからなんです」
「…………」
唐突に始まった自分語りに、だけどリリエラは何も言わず、黙って耳を傾けている。彩音は少しだけ頬を赤らめていたが、言葉を止めることはしなかった。
「あの時の私には、何も見えてなかった。ただ悲しくって、辛くって、他のことに目を向けようとしないで、ずっと下ばかり向いてた。もう、何もかもどうでもいいって、そんなことばかり考えてた。だけど私、万魔殿へ来て、変わった」
彩音の表情には、初めて万魔殿へ足を踏み入れた時の悲壮感など、今は微塵も窺えないはずだ。それは彩音自身、鮮明に感じていた。
「私、リリエラさんと同じだと思うの。万魔殿へ来て、色んな人と出会って、ここで過ごして……それは、まあ、怖い目にだってたくさんあったけど、でも、それだけじゃなかった。私、きっと楽しかったの。私……私ね、ここへ来て良かったって、ナナシくんやリリエラさんに出会えて良かったって、今は、心の底からそう思えるの」
こうして素直に想いを吐き出せるようになるなど、少し前の彩音には想像もつかなかっただろう。人と向き合うことさえ恐れていた少女は、もうどこにもいないのだ。
「だから私は今、こうやって笑っていられる。失くした《モノ》が帰ってくるんだって、それが確信できるから、今は悲しくなんてないし、辛くもないの。だからこそ、笑っていられるの。……だから、リリエラさんも」
強い意思を持った瞳で、彩音はリリエラを真っ向から見据えた。相変わらず物言わぬリリエラが何を思っているかは分からないが、それでも目を逸らすようなことはしない。
「《幸せ》を失っていないのなら、笑っていないとダメだと思うの……何がダメなのかなんて、私には分からないし、だから、何ていうか……上手くは言えないんだけど、その」
彩音がたどたどしく紡ぐ言葉に、リリエラは相変わらず、ずっと黙って耳を傾けていた。
その《心》を失った彼女に、彩音の言葉はどう届いているのだろうか。
「《心》を失ってまで、ここにいる《幸せ》を求めたあなたに――リリエラさんに、今の私は《幸せ》だよって、教えてあげないといけないって、そんな気がするの。だから――」
「彩音様」
たびたび言葉を詰まらせる彩音の口を、リリエラが不意に止める。生気の――《心》の伴わない無表情のままで、リリエラは彩音に向けて、こう言った。
「私に、笑い方を教えてくださいますか?」
「……あっ……」
彩音の提案を、リリエラは受け入れた。それがどうしてなのか、その《心》を失ったリリエラの無表情からは、一切読み取れない。
それでもリリエラは――笑い方を教えて欲しいと、確かにそう言ったのだ。
「――はいっ!」
そうして彩音は、どれほどの間か、リリエラと笑顔の練習に明け暮れたのだった。
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