8-02

 彩音が部屋を出ると、真向かいの部屋から、ナナシもほとんど同時に顔を出す。いつものようにあくびしていたナナシに対し、彩音が先に声を掛けた。


「ナナシくん、おはよう」


「ふあぁ……あ、おはよっ、おねーちゃん」


 歯を見せて笑うナナシに、彩音も微笑み返しながら告げる。


「……ナナシくん、よかったら、少し歩かない?」


「…………」


 誘ってくる彩音の顔を、ナナシは両の目を瞬きもさせず、じっ、と見つめていた。しばらくして、いつもの少年らしい笑みを見せながら、ナナシは答える。


「うん、もちろんいいよっ」




 万魔殿の通路を、彩音とナナシは、並んで歩く。ここへ来てから、何度そうやって歩いただろう。思えば彩音の隣には、いつもナナシがいたような気がした。


「……ねえ、ナナシくん」


 その名を呼んだ彩音だったが、ほぼ無意識の行動だったため、自分で驚いて足を止めてしまう。ナナシも立ち止まり、無言で彩音の顔を見上げて、続く言葉を待っていた。


 彩音は少し考えた末に――ぽつりと呟くように言う。


「今まで、ありがとう」


 その言葉を受け、ナナシは軽く目を丸めた後、すぐにいつもの笑みを浮かべた。


「どういたしましてっ!」


 ああ、相変わらず、太陽のように笑う子だ、と彩音も微笑み返す。この薄暗い万魔殿において、彼の存在には、一体どれほど救われたことか。


 思えば、彼にはずっと助けられっぱなしだった。万魔殿の《案内人》である彼は、だけどその役目以上に、彩音のことを何度も助けてくれたのだ。


 彩音が《希望》を取り戻せたのも――彼が、居てくれたからだ。


「私、行くね」


 どこへとも示されていない、そんな不明瞭な言葉。だけどナナシは、全て分かっている、というように、軽く頷いて見せた。


「うん。僕さ、応援してるよ。おねえちゃんのコト」


 ナナシはまるでいつもと変わらぬように、歯を見せて笑いながら、言葉を続けた。


「僕さ、なんとなく、分かってたよ。この人は――おねえちゃんはきっと、大丈夫だって」


 だけどその、太陽のように笑う顔から――ほんの一瞬だけ笑顔が消えて、少し寂しそうな表情になった。それは本当に、一瞬のことだ。今はもう、笑っている。


「だから、おねえちゃんはもう、大丈夫――僕が保証するからさ!」


 ああ、それは――彼との永遠の別れを、示しているのかもしれない。

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