7-10
自室へと戻った彩音は、椅子に座るでもなく、ベッドへ身を投げ出すでもなく、ただ立ち尽くしていた。
どれほど経ってからか、大きく深呼吸した彩音が、部屋の片隅へと歩いていく。
それの前に――ピアノの前に立った彩音が、無言でまた立ち尽くした。
「…………」
彩音が無造作に、左手でピアノの蓋を開く。薄暗い部屋の中でも輝いているような白い鍵盤に、彩音は自身の意思でも動かしにくい右手を、ゆっくりと伸ばした。
右手に力を込めて鍵盤を押し込むと、ポロン、と軽やかな音が弾む。それとほぼ同時に、つきり、と右腕が痛んだ。そのまま彩音は、引いた右手で白い鍵盤の表面を撫で、ぽつり、ぽつりと呟き始める。
「……私はあなたと、ちゃんとお別れをしていなかった」
一つ一つ、噛み締めるように、彩音は語りかけた。
「怖かったの。あなたを失って、私はこれから、どうすればいいの、って。目の前が真っ暗になって、何も見えなくなって、見たくなくって――あなたのことも、捨ててしまった」
万魔殿へ来てからも、彩音はこのピアノから、ずっと目を逸らし続けていた。
「だけど本当は――私、こんなにも後悔していたのね」
けれど、今は違う。彩音はその目を、逸らしてなどいない。
「私がしないといけなかったのは、あなたを捨てることじゃなかった。あなたから、逃げ出すことじゃなかった。本当は最後に、あなたと向き合わなければいけなかったの。そして私は、あなたに――言わなければならないことが、あったの」
今までずっと、ピアノのことを思う時は、やり場のない怒りや悲しみが心に溢れていた。けれど今の彩音に、その感情はない。ただ穏やかな表情で、向き合っている。
怒りや悲しみを感じる必要など――最初から無かったのだ。
「それが今、ようやく分かったの。ここへ――万魔殿へ来て、時を重ねたおかげで、ようやく」
本当に言わなければならないことは、恨み言でもない、泣き言でもない。彩音にとって、何よりも大切な《あなた》へと贈るべき言葉は、これだったのだ。
「今までずっと、ありがとう。そして――さよなら――」
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