7-04
ここへ来てから、あの大男に追い回されるのは、何度目になるだろう。今までは何とか逃げ切ってこられたが、今回ばかりは危ういように思える。追いかけられ始めた時の距離が近かったためか、どれだけ走っても振り切ることが出来ない。
「ああっ、もうっ! あの絵の人と私が似てるのなら、少しくらい言うこと聞いてくれてもいいじゃない!」
「いやあ、でもあれ、絵だからねぇ。モデルの人とおねえちゃんが本当に似てるかなんてわかんないし、僕も何となくで言っただけだしさ」
「もぉ~っ! こんな時まで適当なんだからぁっ!」
とはいえそもそも、大男が何かを求めて万魔殿を徘徊しているとか、人を襲う動機があるのではないかとか、それらは全て彩音の憶測である。実際のところなど全く分からないのだし、説得するという行為自体が無意味だったと言えなくもない。
「うう~っ……私、バカみた――いっ!?」
走りながら俯きかけた彩音が、地面の出っ張りに気付かず足を取られてしまう。盛大に倒れ込んでしまい、彩音は痛みに身をよじりながら、左手を突いて立ち上がろうとした。
「いっ、たぁい……んっ、よいしょ、っと」
「お、おねえちゃん! 後ろ! 早くっ!」
「……えっ?」
ナナシの切羽詰った声に、彩音は顔だけを後ろに逸らした。そこにはもう――大男が、目と鼻の先にまで迫ってきている。
「あっ……あ、あぁっ……」
大男の異様に大きな眼球で見つめられ、彩音は身体の芯から震えだした。混乱状態の頭で慌てて立ち上がろうと両手を地面についた瞬間、右手に鋭い痛みが走る。
「ひうっ――!」
立ち上がることは叶わず、彩音は尻餅をついてしまった。
「おねえちゃん!」
ナナシの声が後方から近づいてくるのを、彩音の耳は鮮明に聞き取っていたが――どうやらそれも、間に合いそうにない。
「グ、ウルルゥ……オオオ……」
自身を物色するように眺め回してくる大男への恐れは激しく、彩音は尻餅をついたままの体勢で後ずさる。
「こっ……こないで、いやっ、お願いっ……!」
震える声での懇願は、届かぬ祈りの力無さと似ていた。その圧倒的な暴威の前では、微塵となって吹き飛ばされてしまうだろう。
ついに大男は、その異様に大きな口を開き、咆哮した。
「グゥオォアォオォォォ!」
「いっ……いやぁぁぁ!」
もはや絶体絶命――と思われた次の瞬間、彩音の頭上を黒い何かが飛び越える。
「グウォッ!?」
それは黒い矢のような勢いで大男の額に直撃し、くるりと回転して彩音の前に着地した。
長い尻尾をからかうように躍らせて、悪びれることもなくマイペースに前足で顔を洗っているのは、艶やかな毛並みの黒猫――クロだった。
「にゃあん?」
彩音と目を合わせ、かわいこぶるような声を上げる姿は、とても普通の猫とは思えない。まるで、解っていてそんなポーズを取っているようだった。
「グウウゥ……オオォォォ!」
しかし《理性》を失った大男は、黒猫の可愛らしさなど知ったことか、と怒りの咆哮を上げている。身を竦ませる彩音とは対照的に、黒猫は余裕で大きくあくびをしていた。
「ヴォオォォォ!」
「あっ……危ないっ!」
大男の丸太のような両腕が、容赦なくクロを襲う。思わず手を伸ばした彩音だったが、その手は空しく空を切った。それはどうやら、大男も同じらしい。
クロは――尋常ならざる瞬発力で、いつの間にか跳躍していたのだ。
そのままクロは大男の額に再度着地し、思い切り蹴りつけるようにして飛び上がった。今度は彩音の前にではなく、大男の後ろに着地する。
「……ふすんっ」
思い切り鼻を鳴らしたクロが、挑発するような笑みを大男に見せつけた。彩音は思わず、子供の頃に読んだ《不思議の国のアリス》に出てくる《チェシャ猫》を連想してしまう。
そして《理性》を失った大男は、クロの挑発に――
「グルルゥウッ……オゥアァァァ!」
あまりにも素直に引っ掛かってくれたのだった。
なんとか窮地を脱した――かに思えたが、彩音はあろうことか、クロと大男を追いかけ、駆け出そうとしていた。
「まっ……待ってっ!」
「ちょちょちょっ、おねえちゃんこそ待ちなよ! 危ないってば!」
「でもっ……だって、クロちゃんがっ!」
「クロなら大丈夫だって! 普通の猫じゃないし、僕より逃げるの上手いんだから!」
「でも……でも……」
ナナシに引き止められながら、彩音はそれでも追いかけようとする。そんな彩音の左手を力強く引き、ナナシは無理やり走り出した。
「いいから、ほらっ、逃げるよ~っ!」
「あっ、あうぅ……」
結局、彩音は再び引きずられるような形で、万魔殿の通路を進まされることとなった。
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