第七幕 《時》は重ねて《過去》をも照らし、彼女は《あなた》へ贈るべきを知る

7-01

 朝か昼か、あるいは夜なのかも不鮮明なこの場所で、彩音あやねは目を覚ました。朦朧としている意識のまま、瞼を擦って上半身を起こし、ベッドの上で大きく一度だけ伸びをする。


 万魔殿パンデモニウムにきてから、こうして目を覚ますのは、何度目になるだろう。半覚醒の頭でそんなことを考えていた彩音が、無意識にピアノのほうへ視線を移す。


「…………」


 初めてこの部屋に来た時と比べれば、見ただけで憂鬱になるようなことはなくなった。とは怖いものだ、と思いながらも、彩音の心の片隅では別の思いもよぎる。


(――本当に、ただ、なのかな)


 そうに決まっている、と頭を振る彩音だが、一向に思いは晴れない。気分転換をしようとベッドから身を起こし、そのまま扉のほうへと足を向けた。


 扉を開けて通路に出ると、向かい側の部屋からは、ちょうどナナシが出てきていた。


「ふあ~あ……あ、おねえちゃん、おはよっ!」


 あくびをして開いた口はそのままで、ナナシに挨拶される。彩音は軽く失笑しながら、返事を返すことにした。


「ふふっ、おはよう、ナナシくん。なんだか眠たそうね」


「うん、昨日の寝る前にさ~、ちょっと気分転換に散歩しようとしたら、例のアイツに見つかって、ず~っと追い回されてたんだよ。それで、あんまり寝てなくて……ふあぁ~」


 アイツといえば、例の大男だろう。再び大きなあくびをするナナシに、彩音が少しばかり青ざめた表情で声を掛ける。


「……た、大変だったのね」


 今から気分転換に散歩でも、と思っていた彩音にすれば、他人事ではない。やっぱり部屋で大人しくしていようか、と考え直しそうになったところで、ナナシが口を開いた。


「まあ、今なら多分、大丈夫だけどね。だから出てきたんだし」


「……ナナシくんが前に言ってた、休憩時間、っていうやつかしら?」


 とはいえ、その時の休憩時間というのは大ハズレだったし、直後には追い回されていたわけだから、あまり信用できないだろう。


 そんな彩音の思いを察したのか、ナナシは少しだけ頬を膨らませて反発する。


「むっ、おねえちゃん、アテにならないなー、って思ってるでしょ。そりゃ、前は思いっきり外しちゃったけどさ、昨日はアイツだって僕を追い回して疲れてるはずだし、今回は間違いないよ! ……多分」


 それでもやはり、多分、である。不安を全く拭いきれていない彩音に対し、ナナシが珍しく怒ったような顔をして、彩音の左手を引いた。


「よーしっ、じゃあ、アイツが休んでる所に行ってみようよ! 僕が正しかったら、アイツは今の時間、あの場所にいるはずなんだから」


「え、ええっ? あの場所ってどこ……ていうか危ないんじゃ……ちょ、ちょっとぉ!」


 話を聞かないナナシに引きずられるように、彩音は万魔殿の通路を進まされた。

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