6-03

 万魔殿の厨房らしき場所を、お腹を空かせていたナナシは、右も左もと漁りまわった。大鉈や調理台でさえ、何の用途に使うのか分からなかったものだから、棚を開けるという発想に辿り着くのにも時間が掛かってしまう。


 そしてようやく棚を開けた時、ナナシの目に、信じられないモノが飛び込んできた。


 泥の付着した雑草、腐りかけの柔らかい木の皮、濁った汚水――更には、カビの生えたパンが、誰かのかじった後まで付いて置かれていて。


 それぞれを一つずつ眺め回し、ナナシはつい、こんなことを思ってしまう。


(ああ、ここは、ここはなんて――食べる物に困らない場所なんだ!)


 他の食べ物や、いわゆる料理というものをナナシが知るのは、もう少し先のことである。


 更に、この万魔殿で『お腹が空く』というのは単なるであり、実は食事などを摂らなくとも生きていけるのだが、それを知るのもずっと先のことだった。


 ――――――――


 ナナシは万魔殿の中に、アスモデウスから教わって、自分の部屋というものを作った。先住者の隣室というのも考えはしたのだが、その大半が引き篭もっており、ろくに会話も出来ないものだから、何となく気が滅入ってしまう。


 そのためナナシは、空き部屋ばかりの通路を見つけて、その一室を選んだ。


 ある日、気ままに時を過ごしていたナナシに、不思議な予感のような何かが駆け巡る。


 ――万魔殿に、誰かがやって来た――


 直感というより、それは確信だった。ナナシは藁で作ったベッドから飛び起きて、万魔殿の入り口へと走る。


 見るたびに、大きな扉だなぁ、とナナシは思う。


 それはそれとして、客人はどこだろう、とナナシは辺りを見回した。恐らく、もう万魔殿へは足を踏み入れたはずだ。


《案内人》としての初仕事に、ナナシは胸を高鳴らせる。誰かに必要とされて、仕事を与えられることなど、ナナシにとっては初めてだったのだ。


 どんな人が来るのだろう、まずはどうやって挨拶しよう、そんな考えを巡らせていたナナシだったが、客人は一向に見当たらない。


『……あーあ』


 もしかしたら、そのまま出て行ったのかもしれないな、と残念そうに溜め息を吐いたナナシが、大きな人型の石像へと寄り掛かる。


『ちぇっ、初仕事だと思ったのになぁ』


 そんなことを呟いたナナシは、石像に体重を預けながら、ふと思った。


(――それにしても、この石像、石とは思えないほど温かいな、硬いのは硬いけど。ていうか、こんなトコに石像あったっけ? 入り口には何度も来てるはずなのに、見たことないんだけど……っていうか――)


『グルゥオ……』


(――石像って、喋るっけ?)


 ナナシが恐る恐る声のした上のほうに目を向けると、そこには――いまだかつて、見たこともないような大男がそこにいた。


 少し驚いたナナシだったが、勇敢にも片手を振り上げ――


『やあ、はじめまして! 僕はここの《案内人》のナナシだよ! いやー、おにーさん、デッカイねー。こんな大きい人、初めて見た――』


『グルオァァァァ!』


 ナナシの挨拶もそこそこに、大男は咆哮を上げながら暴れ始めた。ナナシは慌てて大男から離れ、少し遠くから声を掛ける。


『うわわ、まあまあ、落ち着いてよ。寄り掛かってたことに気付かなかったのは謝るからさ。とりあえず今は、アスモデウス様に挨拶へ……』


『グボアァアァァァ!』


『お、おわーっ! 襲ってきたぁー!』


 取り付く島などまるでなく、凄まじい勢いで襲い掛かってくる大男を相手に、ナナシはひたすら逃げ惑うしかなかった。


 結果のみを言えば、ナナシの《案内人》としての初仕事は――に終わったのだった。


 大男は結局、アスモデウスの下へ挨拶にも行かず、ずっと万魔殿の内部を徘徊している。たまに休みを取る法則があるのをナナシは見つけていたが、それも確実ではない。


 ナナシにとって万魔殿における最初の後輩にあたる大男は、何とも厄介な存在で、彼はこれから先ずっと、住人や来訪者を襲い続けることになる。


 しかしまあ、それはそれ、とナナシは割り切った。アスモデウスの言い分を当てはめるのなら、万魔殿では暴れることだって《自由》なのだから。

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