6-02
『ほう……これは珍しい客人じゃの』
闇の中で、ナナシの耳に飛び込んできたのは、凛と響く少女の声だった。
いつの間にか、倒れこんでいた地面は土ではなくなっている。どうやらここは室内で、だけどちゃんとした家屋というヤツに上がり込んだ経験など無かった少年にしてみれば、初めて目にする場所だった。
土や木以外の地面を珍しそうに眺める少年に向け、再び高い声が響く。
『こうして直接、余の部屋に現れることも稀有なれば、失いし《モノ》も人間にしては珍しい。よくも《それ》を失いながら、こうしてここへと訪れることができたものじゃ』
そこで少年は、ようやく声のするほうへと視線を動かした。そこにいたのは、ナナシが良く目にするような、貧しい身なりの痩せ細った少女だった。
しかし少女は、その見た目からは想像がつかないほど、大人びた立ち居振る舞いを見せる。
『少年よ、汝の名はなんという? 余に教えておくれ』
少女がしゃがみ込んで尋ねるが、少年には答えるべき名が無かった。それを付けてくれる親もいなければ、これまでに少年の名を呼ぼうとする者もいなかったし、少年自身が名など必要としていなかったのだ。今までずっと、ただ独りで生きてきたのだから。
答えられない少年に対して、しかし対面していた少女は、なぜか納得したように頷いた。
『ふむ、名無し、名無しか……汝はここへ来るまで、名を持たずして生きてきたのじゃな。ふむ、なるほど、名を持たずをして、しかしそれこそが汝であったのか。名無し――うむ、汝の名は、ナナシ。それで良いのだ』
なにやら独りごちるようにして結論付けた少女が、加えてナナシへと声をかける。
『では、ナナシよ、汝はこれより、この万魔殿の《案内人》を務めるがよい』
いきなりそう言われても、ナナシには何が何だか分からなかった。と、その時、視線を外した一瞬の間に少女の姿が変わっていて、ナナシは思わず驚いてしまう。
相変わらず身なりは貧しいが、歳の程は大人の女に変わっていた。その昔ナナシが脳裏に思い浮かべた、もしも自分に母親がいたら、という姿と印象がだぶる。
彼女はそのまま、特に姿が変わったことへの説明もなく話を続ける。
『この万魔殿に来る者は数多。しかし誰も彼も、出て行くか勝手に住み着きおるばかりで、余の部屋には稀にしか来ようとせん。余にとって、これはあまりにもつまらぬ。ナナシよ、汝はこの万魔殿に訪れた者を、まず余の部屋にまで案内するのじゃ』
女性はやや高圧的に命令し、ナナシを指差した、が――ナナシは何度も女性から視線を外しては、戻し、外しては戻しを繰り返していた。そのたびに姿が変わるものだから、ナナシにしてみれば不思議で、しかし同時に楽しくもなってくる。
『……忙しない小僧よのう』
女性が呟くまでに、幾度ほど姿が変わっただろう。うらぶれた老婆、略奪を生業とするような賊の女、傷だらけの女――また再び少女に戻った辺りで、ナナシはようやく落ち着く。
少女は少しばかり呆れたような表情で、しかし口元を軽く綻ばせた。
『汝はここで、自由に生きるがよい。客人の《案内》にしても、別に自由じゃ。好まざる者であれば、案内せずとも良い。好きにせよ。ただし一つだけ――汝には、決して犯してはならぬルールがある』
少女が人差し指を立てた後、ナナシに突きつける。
『この万魔殿から、外へは出ぬことじゃ。ここで生きていきたければ――万魔殿の外へは、決して出てはならぬぞ』
その言葉の意味を、ナナシは全て理解できた訳ではない。ただ、少女の言う通り、それはナナシにとって、決して犯してはならないルールなのだろう。それだけ理解できれば、互いにとっては充分だった。
少女は軽快に笑いながら、続けて語る。
『この万魔殿には、生きるため必要な《何か》を失った者がやってくる。ふむ? 汝が何を失くしたのか? くくっ、まあ、知る必要も意味も、今さら無いものじゃ、気にするな。それよりも、客人を《案内》する時は気をつけるのじゃな。彼奴ら、誰も彼もが神経質になっておるからの。機嫌を損ねては、嫌われるかもしれんぞ、くくっ』
半分は冗談が混じったような喋り方だったが、ナナシは素直に受け止めていた。ようし、頑張るぞ、と鼻息を荒げるナナシに、少女は最後にこう告げる。
『余の名はアスモデウス――覚えておくがよい、ナナシよ。これが汝の名付け親の名、そして汝の主である、大悪魔の名であるぞ』
告げられたその名を――ナナシはきっと、永遠に忘れることはないだろう。
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