第六幕 少年はただ、そこで起こる全てをこそ《世界》として見ようと決めた

6-01

「はあっ……もうっ、相変わらずしつこいんだから」


 ナナシにとっては何百、もしかしたら何千回としてきたことだが、彩音あやねにとっては何度目だろうか。例の大男から逃げ切り、彩音が頬を膨らませる。


「あははっ、おねえちゃん、余裕が出てきたねっ」


「そんなことないわよ、こっちは必死なんだからね」


 そうは言うものの、ついこの間までと比べれば、随分とこの万魔殿パンデモニウムにも馴染んできた、とナナシは口に出さず心の中でのみ思う。


「……そういえば、ナナシくん」


 隣を歩いていた彩音が不意に、これも何度目になるであろう、ナナシに質問を投げかけた。


「ナナシくんは、この万魔殿に来る前のことって、覚えてないの?」


「んっ? うーん……」


 ナナシは顎先に指を当て、一つ唸ってから考え込んだ。そして数秒の間を置いてから、ようやく彩音へと返答する。


「よく覚えてないんだ、あはは」


「そう……なんだか不思議ね。何を失ったのかも、よく分からないっていうし」


「うん、そうだよね~。まあ、覚えてないってことはさ、必要ないものなんだよ、きっと」


 そういうものかしら、と首を捻る彩音を見て、ナナシは軽快に笑ってみせた。そうやって彼女の隣を歩きながら、ナナシはひっそりと過去の記憶に思いを馳せる。


 万魔殿へ訪れる前の記憶を、ナナシは数え切れぬ時を越えても


 それを彩音に言えなかったのは――どうしてだろう。


 ナナシには、、としか言えなかった。


 ――――――――――


 まず思い出せるのは、誰もが貧困に喘ぎ、人と人とが喰らい合うような、極貧の小さな村落だった。誰も彼もが、その日その日をただ生き抜くために精一杯で、他者のことを思いやる余裕などない。生きるためなら、理不尽な略奪さえ当たり前だった。


 そんな地獄のような場所で、身寄りの無い一人の少年は――ナナシは、腐った木片を食み、泥水を啜りながら、それでも懸命に生きてきた。


 だけどその世界は、他者に頼る当ての無い少年が一人で生き抜くのには、あまりにも厳しすぎた。やせ細ったその身体の限界は、些細なきっかけで突然に訪れるのだ。


 飢餓に耐え切れず、ナナシは土の上に倒れ込んだ。そういうことは、これまでにも幾度となくあったから、ああ、いつものことだ、とナナシも最初は気にしていなかった。


 いつもと違うことに気付いたのは、もう少し時間を置いてからのことだ。


 いつまで経っても、起き上がる力が湧いてこない。それどころか、身体からは徐々に力が抜けてゆき、途方もない喪失感に全身が包まれていくようだった。


 そこでようやく、ナナシはこう思うようになった。


(――ああ、もしかしたら僕は、死んでしまうのかもしれないなぁ――)


 霧でぼやけたような思考で、霞んでいく視界の中に、ナナシは見た。地面に横たわる、放置された遺体、風化していく骨――自分もじきに、その仲間入りだ。


 そこでナナシは初めて『死にたくない』と思った。今までは、ただ生きることに精一杯で、いちいち《死》を恐れることなどなかったというのに。


 こんな地獄で十五年も生き抜いただけでも、大したものだと思いながら、それでも。


 死にたくない、死にたくないと――ああ、まだ『』のだと、何も持たぬ少年は、だけどただ一つ残されていた《それ》に、必死で縋り付いていた。


 ――その儚い望みも、いつしか深い暗闇の中へ、無情にも飲み込まれていく。

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