5-10 第五幕ラスト

「…………」


 淡々と、一定のリズムを保って紡がれていた言葉が、不意に止まる。唐突にリリエラが沈黙したことで、彼女の話が終わったことを、彩音は少しだけ間を置いてから理解した。


「……あの、私、なんて言ったらいいか……」


 椅子に座って、左手で膝の辺りを強く握った彩音が、だけど何と言えば《心》を失ったリリエラに届くのか、言葉にしたそのままの疑問に囚われてしまう。


「……あの、リリエラさんは」


 それでも彩音は、聞きたかった。これだけは、聞かねばならないと思ったのだ。


「リリエラさんは今――《幸せ》なの? 《心》を捨てて、そうまでして、この万魔殿にいることを選んで――それでも《幸せ》なの?」


 彩音の問いかけに、リリエラはいつものように間を置かず、しかしゆっくりと答えた。


「はい、彩音様――リリエラは今、とても、とても――《幸せ》です」


 相変わらずの無表情で、けれどリリエラは『幸せだ』といった。


 その《心》を失って、リリエラは本当に《幸せ》を感じられているのだろうか。その感情の受け皿は、きちんと彼女の《幸せ》を受け止めているのだろうか。


 それは、彩音には分からない。もしかすると、その《心》を失ったリリエラ本人も、本当には分かっていないのかもしれない。


 ――それでも、彼女は『幸せだ』と言ったのだ――


 きっとそれが、この万魔殿における、彼女の全てなのだろう。彼女がここにいたいと望み、求めたモノの全てなのだろう。


 それならば、彩音に何を言う権利もない。誰にだって、何も言えはしない。


 ――それこそが、彼女の《自由》なのだから――


「……リリエラさん、あの、お話を聞かせてくれて、ありがとうございました」


「いいえ、彩音様――私でよければ、いつでもお相手させて頂きます」


 言いながら形式ばった礼をするリリエラに、彩音も慌てて一礼して返す。


 大男の声は、とっくの昔に遠ざかっていた。廊下からは一切の音も聞こえてこず、彩音とリリエラがいる室内でさえ、静寂に包まれている。


「私……そろそろ、自分の部屋へ戻りますね」


 彩音が立ち上がり、ゆっくりと扉のほうへと歩み寄る。するとベッドの端に腰掛けていたリリエラが、彩音よりも素早く動き、先に扉を開けた。


「お気をつけてお帰りください、彩音様」


「……あ、ありがとうございます」


 申し訳なさそうに礼を言った彩音が、申し訳ないついでだ、と質問することに決めた。


「あの……わ、私の部屋って、どこにあるのか分かりませんか?」


「彩音様のお部屋、ですか?」


「あっ、わ、わかりませんよね。変なこと聞いちゃって、ごめんなさ――」


「存じております。案内致しましょう」


 そう言ってリリエラは、彩音と共に部屋を出た。ナナシといい、リリエラといい、よくこの広い万魔殿を把握しているものだ。長く住んでいたら、自然とそうなるのだろうか。


 なにはともあれ、一安心――と彩音が胸を撫で下ろした瞬間、リリエラが足を止めた。


「えっ? あ、あの、リリエラさん?」


 戸惑う彩音に対し、リリエラは腰の高さに手を掲げ、一つの部屋を指し示す。


「彩音様のお部屋は、こちらでございます」


 そこは、リリエラの部屋のすぐ左前にあった。


「…………」


 彩音が無言で扉を開いてみると、間違いない、そこは彩音の部屋である。


 なんだかんだといって、近い場所までは逃げてこられていたようだった。

 そういえばナナシは『話をしやすい人には近い部屋を勧めている』ようなことを言っていたし、リリエラが万魔殿に訪れた当初、そうしていたのだろう。


 それにしても、これほど近い部屋に住んでいて、今まで気づかなかったとは――彩音が自身の不明を恥じ、顔を赤くしながらも、とにかくリリエラに礼を告げた。


「……あ、あの、リリエラさん、ありがとうございました……」


「いいえ、彩音様。いつでもお申し付けくださいませ」


 一礼を返したリリエラが、そそくさと自分の部屋へ戻っていった。それを確認した後、彩音も自室に戻り、深い溜め息を吐く。


「はぁ~……」


 ベッドの上へと倒れこみ、ごろりと寝返りを打つ。先ほど聞いたリリエラの話が、彩音の頭の中に、まだ居座っていた。


 リリエラが、決めたのだ。彼女が『幸せだ』と言うのだから、それでいいのだろう。


「――だけど――」


 本当にそれだけで、いいのだろうか。彩音は疲れた頭で、そんなことを考える。


 彩音が口を挟むようなことではないだろう。だけど、それでも――心の中で詰まるものだけは、なぜだか取り払えなかったのだ。


「ふぁ……う、ぅん……」


 彩音の瞼が、徐々に重くなっていく。抗えぬ睡魔の誘いに流されながら――彩音は瞼の裏の暗闇で、リリエラのを思い浮かべていた。

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