5-05
初めて《そこ》に足を踏み入れた時、リリエラはまるで大きなお屋敷みたいだと感じたようです。きょろきょろと辺りを見回しながら、所々に埃が被っているその場所で、少しだけ不安を感じてしまったのか、誰かいないか呼んでみようと決めました。
『あのぅ……だ、誰か、いませんかぁ……?』
控え目に呼んでみても、返事は全くありません。もう一度だけ、次はもっと大きな声で呼んでみようかしら、と大きく息を吸い込んだ、その時です。
『おねーえさんっ、なにしてるの?』
『きゃあっ!』
上の方から唐突に甲高い声が降ってきて、気の弱いリリエラは思わず悲鳴を上げてしまいます。恐る恐る階段の上に向けたリリエラの瞳に映ったのは、幼い少年の姿でした。
『……あ、あなたは?』
『僕? 僕はナナシ! この万魔殿の《案内人》だよ。よろしくね!』
『まあ……これは、ご丁寧に。あっ、失礼致しました。私、リリエラと申します』
少年の明るい雰囲気に安心したのか、リリエラは身体に巻いたシーツの両端をつまみ、ドレスでするような形式ばった礼をしました。
対するナナシ様は表情を強張らせ、眉をひそめながら、リリエラへと声を掛けます。
『うん……それじゃ、えっと、リリエラさん? ゆっくり、できるだけ慌てないで、階段を上がってきてくれる?』
『? はい、かしこまりました……ゆっくり、ゆっくり……えいっ』
『わあ、想像以上にゆっくりだなぁ……うんごめん、やっぱりちょっとだけ急いで、それと……絶対に振り向かないでね?』
『えっ?』
ナナシ様の言葉に反して、リリエラは反射的に振り向いてしまいます。そこにいたのは、常軌を逸した大男でした。
『あっ……!』
『リリエラさん、早く上がってきて!』
『ごきげんよう、お邪魔しております。私、リリエラと申します』
『いや、挨拶はいいからさ!』
『え? ですが……』
ナナシ様の呼びかけに戸惑うリリエラでしたが、大男の次の行動で、ようやくその意図を理解することが出来ました。
『グルルゥ……オオォアァァァ!』
『えっ……? きゃ、きゃあーっ!』
大男が襲い掛かってきたことで、リリエラはやっと逃げることにしたようです。
――――――――
ナナシ様の案内によって大男を振り切ったリリエラは、そのままの足で、万魔殿の主がおられるという部屋の前までやってきました。
ナナシ様に促され、挨拶のためにその部屋へと足を踏み入れたリリエラは、そのお方のえも言われぬ威圧感に、身体を思わず硬直させてしまいます。
しかしそのお方は――アスモデウス様は、にこりと微笑んで口を開きました。
『生娘よのう』
『えっ……? あ、あの』
『しかしまあ、それほど若い身空で、大層なものを無くしたようじゃのう。くくっ』
机の上で頬杖をついていたアスモデウス様は、リリエラが初めに見た時、妖艶な娼婦のような御姿をしていました。そんなお方があまりにも蟲惑的に微笑むもので、リリエラはなんとなく恥ずかしくなったのか、つい目を逸らしてしまいます。
しかしアスモデウス様は、構わず言葉を続けました。
『余の名はアスモデウス、この万魔殿の主じゃ。この万魔殿にはのう、生きるために必要な《何か》を失った者がやってくる。そう、汝が《幸せ》を失ったようにな』
そう言われて、リリエラはその言葉をすんなりと飲み込むことが出来ました。
リリエラは理解していたのです。自らが《幸せ》を失ったことを、そして掃き溜めのようなあの場所にいては、それを取り戻すことなど叶わぬということも。
だからこそ、リリエラは、あるお願いをしようと決意します――が。
『あ、あのっ……えっ?』
再びリリエラがアスモデウス様に視線を戻すと、なんということでしょう、その御姿は先ほどまでと打って変わり、身なりの良い貴族のような、壮年の女性へと変わっていました。
『くくっ……で、余に何が聞きたい?』
アスモデウス様は愉快そうに笑いながら、両手で目を擦っていたリリエラに続きを促します。
リリエラは戸惑いながらも、今度こそはと、振り絞るような声で言いました。
『……あのっ、私をここに、万魔殿に、住まわせて頂けませんか?』
『……ほう?』
『わ、私、何でもします! 掃除でも、お洗濯でも、私に出来ることなら、なんでも! ですから……私を万魔殿に、置いてください!』
『ふむ、なるほどの……好きにすればよいのではないか?』
『そ、そう仰らず、お願いしまっ……え?』
あまりに呆気ない承諾に、リリエラは目を白黒させてしまいます。アスモデウス様は事も無げに、簡潔に仰ってくださいました。
『ここに住みたければ、好きなだけ住めば良い。出て行くのも自由じゃ。別に掃除などせずとも、居たければ居るが良い。ここでは、何もかもが自由なのだからの。ただし――』
釘を刺すようにアスモデウス様は、リリエラにその《ルール》を告げました。
『失ったモノを取り戻した場合は――ここにはもう、居られんようになるからの。この万魔殿に住まうことを許される者は、生きるために必要な《何か》を失った者だけじゃ』
その言葉には多分な威圧感が、押し潰されてしまいそうなほどに含まれていました。
しかしリリエラの内に湧いたのは――ただただ、感謝の感情ばかりだったようです。
『……あっ、ありがとうございますっ!』
万魔殿の主、アスモデウス様に勢い良く頭を下げた、その日から――リリエラの、万魔殿での暮らしが始まりました。
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