第五幕 《心》なき美女は、ただ《幸せ》のみを願う
5-01
重い地響きが迫ってくる中で、
「もうっ……なんでいっつも追ってくるのよっ!」
彩音が不満を露にするが、地響きは止む気配を見せない。
彩音達は今、例の大男に追い回されていた。再三に渡る逃亡劇に、さすがのナナシも気疲れを隠し切れないのか、走りながら深い溜め息を吐いている。
「おねえちゃん、よっぽどアイツの好みだったのかな? 捕まっちゃったら、もうとんでもないことされちゃうかもよ?」
「こ、怖いこと言うの、はあっ……やめてよっ! 絶対に捕まらないんだからっ!」
「あははっ、そうだよね。うん……よーしっ」
その時、ナナシが逃げていた足を止め、大男と向かい合った。まさか、と振り返る彩音の悪い予感は、見事に的中してしまうこととなる。
「おねえちゃん、また僕がアイツを引き付けるからさ、その間に逃げてよ。今回は、ゆっくり自分の部屋まで逃げればいいんじゃないかな」
「な、ナナシくんっ! 無茶はしないって約束っ……」
「あははっ、うん、出来るだけね。それじゃ……いってきまーすっ!」
気合を入れるような一声と共に、ナナシは大男の大きな股下を滑り抜け、向こう側へと到着する。ナナシは自身のお尻を叩きながら、挑発するように大男を呼ばわった。
「ほらほら、こっちだよーっ! 捕まえられるもんなら、捕まえてみろーいっ!」
ぴょんぴょんと目立つように飛び跳ねて、自身の存在を主張するナナシ。そろそろ逃げ出すかと、大男に背を向けようとした彼だったが、しかし――
「グル、ル……ウゥ?」
大男は追っていかず、挑発するナナシと立ち尽くす彩音を、交互に見比べていた。その眼はどちらのほうがより捕らえやすそうか、好みであるか、吟味している捕食者のようだ。
二人が再三に渡って見比べられた後、ついに判決が下される。
「……ヴォアァァァァァ!」
どうやら大男は、彩音のほうをお気に召してしまったらしい。
「きゃ、きゃあーっ! ちょ、ちょっと、ナナシくんっ!?」
抗議の声を上げる彩音の瞳に、大男の向こう側で手を振るナナシの姿が映った。
「おねえちゃん、ごめーん! 自力で何とか自分の部屋まで逃げてー!」
「……そ、そんなこと言われたって、そんなの……」
弱気になる彩音だったが、《理性》を持たない大男は待ってくれない。
「グルルゥ……」
「……もぉ! ナナシくんのばかぁ~!」
踵を返し、彩音は駆け出すことしか出来なかった。
「はぁっ、はぁっ……ど、どうしよう……」
何とか自分の部屋まで、と言われたものの、複雑に入り組んだ通路で、しかもいまだに住み慣れない場所を駆け回っているのだから、迷ってしまうのも無理はないだろう。
「……ていうか、私、かなり遠いところまで来ちゃったんじゃ……」
多くの部屋が立ち並ぶ通路へ来るたび、自分の部屋は果たしてどこであったかと、彩音は毎回頭を悩ませる。ナナシはよく迷わないものだ、と変な感心までしてしまうほどだ。
「ヴォオオオォォォォ!」
と、のん気に感心している場合ではなかったことを思い出す。
とにかく逃げなければ、と駆け出した彩音の視界に、見覚えのある人影が映る。部屋へ入ろうとしているその人は――《心》を失ったという、あのリリエラだ。
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