4-07

 ナナシは、彩音よりよほど力が強い。それはいつも万魔殿を案内され、その手に引っ張られている時に、常々理解させられている。あの小さく細い体躯のどこから溢れてくるのか、その力は彩音を捻じ伏せるくらい、いとも容易く行えるだろう。


「あぁ……」


 ただひたすらに、彩音は目を閉じて耐え抜くしかないのだ。その溜まりに溜まっていたという彼の情欲を――あらん限り受け止めるしかないのだ。


「いやっ……」


 ――と、ここまでどれくらいの間、そんなことを考えていたのだろうか。


「だめぇ……って」


 彩音は、ふと気付く。飛び掛ってきたはずのナナシの身体が、しかしいつまで経っても彩音と接触しないことに。


「……? ん? ……あれ? ナナシく……んん~?」


 恐る恐る彩音が目を開くと、そこに確かにナナシはいたのだが――


「わーっ! なにこれなにこれ! 机の上に見たことない変な箱があるっ! わっ、この上からぶら下がってるの、どうやって灯りが点いてるの? 火なんてないのに、すごいや!」


 何やら部屋の中にある物を物色し、それぞれに素直な興味をぶつけている。


 取り残された彩音が、おずおずと片手を上げて自己の存在を主張した。


「……あの、ちょっと、ナナシくーん?」


「わーっ! お布団ふっかふか! なんかイイ匂いもするっ!」


「…………」


「あっ、おねえちゃん、その机の上にある箱って……あの、おねえちゃん?」


 一人ではしゃぎ回っていたナナシが、ようやく彩音の様子が変わっていたことに気付く。


 声を掛けられた彩音は、にこりと会心の微笑を見せながら口を開いた。


「ねぇ、ナナシくん……あの、なんていうか、こう……チョップしていい?」


「……えっ、なんで?」


「もう、思いっ――っきり、していい?」


「い、いやだよー! 痛いじゃないっ!」


「イイじゃないのよ。ちょっとくらい痛いほうが、むしろイイわよ。イイでしょ? イイわよね? イイ以外は認めないんだからね?」


「お、おねえちゃん、目が据わってるよ! 僕、なんか悪いことしたかなあっ!?」


 笑顔の彩音はその質問に答えず、その直後、ナナシの叫び声だけが響いたという。


 ――――――――――


 机の前にある椅子に座って、彩音はにこにこと口元だけ微笑んでいた。対角線上ではナナシが、肩を震わせてベッドの上で正座している。


「……そ、それであの、おねえちゃん」


「ええ、なにかしら? ナナシくん」


「……ま、まだなんか、怒ってる?」


「うふふ、まさか。別にぜーんぜん、最初から怒ってなんてないわよ?」


 一周回って落ち着きを取り戻した……ように見えなくもない彩音に、ナナシが恐る恐る両手を合わせて拝むようなポーズを取る。


「ごっ、ごめんね、なんかあの、気に障ったなら、謝るからっ!」


「……はぁ、別にいいわよ、もう。……本当に襲われたって、それはそれで困るし……」


「ん? 襲うって?」


「な、なんでもないわよっ」


 いつもの調子に戻った彩音を見て安心したのか、ナナシが正座していた足を崩しながら、改めて身を乗り出して質問を再開する。


「で、で、おねえちゃんの後ろのさ、机の上にあるそれって、なんなの?」


「……あ、CDプレイヤーのこと? これは、まあ……こういう物よ」


 言いながら彩音がスイッチを押すと、ほとんど同時にプレイヤーから音楽が流れ始める。電気がどこから通っているのかなど疑問は湧いたが、どうせ聞いたところで理解できるような答えは返ってこないだろうと判断し、彩音はその件について言及しなかった。


 ともあれ、今は眼前で目を輝かせているナナシの相手をする必要があるだろう。


「なっ、なにこれっ、音楽? どこから出てるの? この小っちゃな箱の中に、誰か入ってるの? 前に誰かが持ってた、オルゴールってやつと、全然違う! すごいすごい、なにこれっ!」


 無邪気にはしゃぐナナシに、くすり、と彩音もつい失笑する。ナナシは次から次へと、見たことのない物への興味を露にした。


「これは? この、上からぶら下がってるヤツ。どうやって灯りついてるの? 火……とはなんか、違うよね? この紐、なに?」


「これはね、ほら、その紐、引っ張ってみて……軽く、よ?」


「えっ、う、うん……わっ! 灯りが消えたっ! わっ、引っ張ったらまた点いた! ど、どうなってるのーこれっ!?」


 ナナシは幾度となく、垂れてきている紐を引っ張り、灯りを点けたり消したりを繰り返す。そのたびに眩しくて彩音は目を細めたが、その行為を咎める気にはなれなかった。


 彩音の世界では当たり前のことも、この少年にとっては新鮮な驚きに満ち溢れているのだろう。なぜだか、それが鮮明に伝わってくるのだ。


 不思議の国に迷い込んだように室内を見回していたナナシが、輝く目で次の標的を見つける。


「じゃあ、じゃあ……あっ」


「あっ、ナナシく――」


 彩音が呼び止めようとするより早く、ナナシは《それ》の前へと歩み寄った。


 その――大きなピアノの前へと。

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