4-05
部屋で独りになると、彩音の気分はどんよりと沈んでしまう。理由は言わずもがな、部屋の片隅にある、例のピアノだ。
「……はぁ」
何度目だろうか、この部屋にいて彩音は、数え切れないほどの溜め息を吐き続けていた。溜め息を吐くたびに、気分はどんどん沈んでいくような気さえする。
そういえば――と、彩音はカーテンのほうに視線をやった。
「外の景色――見えるのかしら」
この万魔殿の外は、どうなっているのだろう。この不思議な場所では、外の景色も単純には見えないかもしれない。もしかしたら、彩音の元いた世界に繋がっている可能性もある。
一切の光を遮断しようとするような、不自然なまでに厚手のカーテンを、彩音は自由に動く左手で掴んだ。見た目は布地のようでありながら、鉛のごとく重量感のあるカーテンを、渾身の力で引き開く。
――カーテンの向こう側には、この世の物とは思えない景色が広がっていた。
まるでこの場所は、深い暗雲の中を飛んでいるようだ。時折、暗雲を引き裂く稲光が遠目に映る。連続して線を引く雷雨の激しさとは裏腹に、一切の音も届いてこない。
ともすれば幻想的な光景にも思えるが――しかしその、この世ならざる美しさに、あらぬ来訪者が割り込んできた。
翼の生えた人間――間違いでなければ、天使と呼ばれる存在だろう。規則的に群れをなして飛び交うその姿は、この景色をいまだ幻想的に彩っていた。そのどれもが長槍を雄々しく携え、純白の衣を身にまとい、天上の象徴とされるのも頷ける御姿である。
――そんな幻想が終焉を迎えたのは、彼らがこの万魔殿に近づいてきてからだった。
「――えっ?」
彩音の瞳の中で、徐々に拡大していくその姿。純白の天使の顔には――目も鼻も、口も耳も、何も存在していない。薄っぺらな皮膚の仮面が張り付いているだけの、まるでのっぺらぼうのような顔だった。
何度となく目を擦っても、幾度となく見直しても、その平坦な細面に目鼻や口が生えてくるはずもない。見間違いではないのだ。
そして彩音の眼前にまで迫ってきた《顔のない天使》は、無造作に長槍を振りかぶった。
「あっ……は? あ、えっ?」
何が起きているのか理解できていない彩音に向けて――ついに長槍が振り下ろされる。
「きゃっ……きゃあああっ!」
悲鳴を上げてうずくまる彩音に、しかし槍の矛先は届かない。そこで改めて彩音は、内側と外側を分かつための窓の存在に気付いた。開く術のないはめ殺しの窓は、大して頑丈そうにも見えないのに、天使達の振るう長槍を全て弾き返している。
そこでまた、彩音は新たな事実に気が付く。
「万魔殿が――攻撃を受けてるんだ」
彩音の部屋だけが、攻撃されているわけではない。
他の《顔のない天使》達の姿は時々しか見えないし、攻撃されている時の音が聞こえてくるというわけでもないが、彩音は直感的に理解した。
だからといって、どうすれば良いのか判らない。そんな時、真っ先に思い浮かぶのは、
「――ナナシくん――ナナシくんっ! 大変なのっ!」
万魔殿の《案内人》である、少年の名だった。
彩音が呼んでから間もなく、待ってましたと言わんばかりに、部屋の扉が開け放たれた。
「はいはーいっ! おっ邪魔しまーっす! おねえちゃん、どうしたのっ?」
張り込んでいたのかと思うほど、ほとんど間を置かずに現れたナナシだったが、今の彩音はそれどころでない。
「あっ、ナナシくん! 大変なの、外が……天使、みたいなのが……万魔殿をっ」
「まあまあ、落ち着いてってば。僕に任せてよっ」
どん、と胸を叩いたナナシの姿に、彩音は頼もしさを覚えていた。大股でナナシが窓へと近づくと、いざ仕事の時間、と言わんばかりに袖を捲り上げ――
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