4-02

「にゃあ」


「あっ、ごめんなさ……えっ?」


 蹴ってしまいそうになった足を引っ込めながら、彩音が目を丸める。彩音の足元を横切ったのは、毛艶の良い一匹の黒猫だった。この大悪魔の支配する万魔殿において、その存在は相応しいといえるか、それともここにいるのは、やはり不自然だろうか。


「にゃあん」


 おもむろに黒猫が擦り寄ってこようとするが、彩音はそれを反射的に避ける。おや、と言わんばかりに黒猫は首を傾げ、再び擦り寄ろうとしたが、彩音は同じく足を上げて避けた。


 そんな両者のやり取りを眺めていたナナシが、彩音に尋ねる。


「おねえちゃん、猫、嫌いなの?」


「……そうね、嫌いよ」


「うーん……本当に?」


 思いがけぬ疑問の声に、彩音が苛立ちを包み隠さず尋ね返す。


「どういう意味? こんなことで、いちいち嘘なんて吐かないわよ」


「だって、クロは猫嫌いの人には、自分からは絶対に近づこうとしないもん」


「……猫なんかに、何が分かるっていうのかし……らっ」


 クロと呼ばれた、いかにも単純な名前を付けられてしまった黒猫は、なおも彩音の足に擦り寄ろうと再三の挑戦を繰り返す。そのたびに彩音は、足を上げて避け、上げて避けを繰り返しているものだから、妙なダンスを踊っているようだった。


「そもそもっ、なんでこんな所にっ、猫なんてっ、いるのかしらっ」


 身体を跳ねさせながら喋っているせいか、彩音の声も同時に弾んでしまっている。ナナシは少し可笑しそうな顔をしていたが、笑うのは堪えながら答えた。


「それは多分、クロも生きるために必要な《何か》を失ったからじゃないかな。何を失ったのかは、聞いても教えてくれないんだけどね」


「バカねっ、ナナシくんっ、猫は普通っ、喋らないのっ、よっ、とっ」


「ふぶっ……ふ、普通ならそうだろうけど、万魔殿だと犬でも猫でも喋るんだよ」


「……えっ? それってどういう……あっ」


 そこで跳ねるのを中断してしまった彩音の足に、黒猫が擦り寄る。再三のチャレンジの甲斐あって目的を達成した黒猫は、ふん、と満足そうに鼻を鳴らせてから去っていった。


 一方的に接触された彩音だけが、どうにも納得いかない表情をしている。


「もう、なんだったのよっ。意味が分からないわっ」


「そうなんだよねー。クロってば、ここへ来てからも一回だって喋ったことないし、何を考えてるのか、ぜんっぜん分かんないんだよねー」


「だから、猫は普通、喋らなくって――」


 そこまで口にして、彩音は自身が発した《普通》という単語に違和感を覚えた。この万魔殿において、今さら《普通》を主張することが、どれほど滑稽なことか。


 だとすれば、ここでは猫だって喋るのだろうか。しかし、そうはいっても――


「でもクロちゃん……あの黒猫は、喋らなかったじゃない。にゃあにゃあ言ってるだけで」


「うん、だから、にゃあにゃあ、って喋ってたんだよ。からかってるんじゃないかな、僕らのこと。そういう、えっと、スタンス? でやっていくのも、自由なんだよ」


 そこでナナシが、《案内人》モードで胸を張って説明を始める。


「ここへ来る動物っていうのはさ、まあ、犬や猫が大半なんだけどね、大体が共通したものを失ってるんだ――《飼い主》っていう、ね。でも、クロはちょっと違うような気がするんだよね、勘だけどさ。なんかちょっと、雰囲気が違うっていうか、不思議な感じ」


 そう言われた彩音だが、確かに変な猫ではあったけど、というくらいの感想しか湧いてこない。他の動物が万魔殿でどのような居住まいをしているのかも、分からないのだから。


 ただ、一つだけ引っかかることはあった。


「……《飼い主》を失った動物が、ここへ来ることもあるのね」


 思わず口にした彩音の言葉に、ナナシが頷きながら返事する。


「うん、ほとんどはそうだよ。そういう意味では、野生の動物っていうのは滅多に万魔殿には来ないんじゃないかな。でも《飼い主》の失い方も色々だよ。ご主人様が死んじゃったっていう犬もいれば、いきなり捨てられたっていう猫もいたから」


「最低ね、捨てるなんて。無責任にも程があるわ」


「うん、まあそうだと思うけど……おねえちゃん、やっぱり猫のこと嫌いじゃないでしょ。速攻だったよ、今の言葉」


「……わ、私は一般的な倫理観の話をしているのっ」


 その一般的な倫理観も、この万魔殿においては、やはり無意味なのかもしれないが。


 それにしても、と彩音は万魔殿へ来てから何度思ったことだろう。不思議の尽きないこの場所で、新たな疑問に首を捻る。


「どうして、犬や猫とも会話できるのかしら。ここへ来ると、いきなり言葉を覚えるの?」


 彩音の投げかけた質問に、お喋り好きの少年は喜んで答える。

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