第四幕 ああ、誰も彼もが、《それ》を失ってまで生きてなどゆけないのだ

4-01

 広い客間を後にした彩音あやね達が、万魔殿パンデモニウムの通路をゆっくりと進む。入り組んだ通路だというのに、先頭に立っているナナシは相変わらず迷いなく進んでいた。


「…………」


 彩音がちらりと、並んで歩いていたリリエラを横目に見る。彼女は空虚な瞳で前方だけを見つめ、彩音が自分を見ていることに気付く様子もない。


 ――リリエラは、一体何を失ったのだろうか?


 彩音がそんなことを考えていると、


「もしかしておねえちゃん、リリエラさんが何を失くしてここにいるのか、気になる?」


 ナナシがおもむろにそんなことを口にした。


「だ、ダメよ、ナナシくん! もしかしたら、気にしてるかもしれないじゃない!」


 彩音は慌てて、ナナシの不用意な発言をたしなめようとするが――


「彩音様、私は《心》を失ったため万魔殿にいます」


 リリエラは、微塵も気にしていないようだった。


「……あ、そうなんですか……って、えっ? 《心》を、って……」


 それを額面通りに受け止めれば、リリエラの今の様子にも納得はいくが――しかし《心》を失ったなどと言われ、どう解釈すれば良いのだろうか。


 難しい顔をして考え込んでいる彩音に、ナナシが再び横から口を出してきた。


「まあ、実はその前に別のモノを無くしてたんだけどね」


「……えっ? 別のモノを、って……」


 一体どういう意味なのだろうか。生きるために大切な《何か》を失い、その後に《心》を失った、とでも言うのか。


 そもそも、以前は何を失ったというのか。それを尋ねても良いものか、彩音が聞きあぐねていると――


「リリエラさんは、最初は《幸せ》を失ってここにきたんだよねー」


 再びナナシが、先んじて答えを出してしまった。


「ナ、ナナシくんったら! そんなこと、軽はずみに――」


「はい、その通りです、ナナシ様」


「…………」


 自分ばかり気を遣っていることが、彩音にも何となく馬鹿馬鹿しく思えてくる。アスモデウスやナナシだけでなく、リリエラも適当の毒に侵されているのかもしれない。


「ホントにもう……皆、変なんだからっ」


 つい失礼なことを口走ってしまった彩音に、ナナシは笑い声で答えた。


「あはは、そりゃあそうだよ。ここに住んでる人達は、生きるために必要な《何か》が欠落しちゃってるんだから、普通の人なんていないよ。おねえちゃんみたいな人って、本当に珍しいと思うよ」


「……なんだか、損している気分よ」


「あははっ、まあまあ、そのうち慣れるよ」


《慣れる》と《妥協する》の違いが曖昧になってきているのを感じながら、彩音は左手でこめかみを押さえる。ナナシだけは相変わらずの笑顔だったが。


「僕もさ、最初の頃はびっくりすることも多かったけど、ずっとこの万魔殿にいて、なんだか楽しいことのほうが多いように思えてきたんだ。そしたらさ、せっかくなんだから、楽しまないと損、って思うようになったんだよ」


「……そうなの」


 この明るい少年は、何を失ってここにいるのだろう。彩音の脳裏に、ふとそんな思いがよぎる。生きるために必要な《何か》を失って、悲嘆に暮れているようには見えない。


 一体どれほどの間、ナナシはここで過ごしてきたのだろう。数ヶ月や半年程度ではないような気がする。見た目から察するに、二、三年くらいだろうか、と彩音は漠然と考えていた。


 その時――物思いに耽っていた彩音の足元に、すっ、と何かが横切る。

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