第三幕 その場所は何もかもが《不思議》に満ち溢れていて
3-01
「よっ、ほっ」
ナナシが立ち止まるたび、彩音も足を止める。しかし彩音は何やら恥ずかしそうにして、ナナシのほうを直視できないでいた。
「へあっ! うーん、難しいなぁ……おねえちゃんみたいに、上手く出来ないよ」
ナナシがやっていたのは、拙いパントマイムだった。朝……というのが、この常に薄暗い万魔殿において正しい表現なのかは不明だが、とにかく彩音が目を覚ました瞬間、待ち伏せていたかのようにノックの音が響いたのだ。
そしてナナシに再三せがまれ、彩音はついに自己流のパントマイムを披露した。大体こんな感じだろうと彩音が見せた手探りのパントマイムを、ナナシは甚く気に入ったようだ。
「ねぇねぇ、おねえちゃん、さっきのアレ、もう一回やってよ! 〝見えない壁をたどたどしく触ったり離したりしながら何をしたいのかよく分からない人〟!」
「……だ、ダメよ、一回だけって約束でしょ? こういうのは、その……な、何回もやったりしないものなの」
目を逸らして拒否する彩音に、ナナシは心の底から残念そうに溜め息を吐く。
「あーあ……あの〝階段から降りようとして途中でずっこけて転がり落ちる〟っていうパントマイム、すごく面白かったのになぁ……」
「……と、とっておきなのよ、滅多にやらないんだから……」
実のところ、途中で足の踏ん張りが利かず本当に転んでしまっただけなのだが、彩音はそんなことを言って誤魔化していた。
どうせ誤魔化しついでだ、と彩音が話を切り替えようとする。
「そ、そんなことより、こんな風に出歩いて大丈夫なの? 昨日の大男に出くわしちゃったら、危ないんじゃないの?」
「えっ? うーん……まあ、今くらいの時間帯なら大丈夫だと思うよ。ていっても、僕の感覚で言ってるから、正確じゃないんだけどね」
〝僕の感覚〟というのは、体内時計という意味だろうか。そんな憶測をしていた彩音に、話好きのナナシが話を続ける。
「それよりもさ、万魔殿の歩き方、ちゃんと覚えといたほうがいいと思うんだ。おねえちゃんだって、一人で出歩いたりしたくなること、あるでしょ? 僕も、ずっと一緒にいられるわけじゃないし、いざっていう時のために、自分の部屋くらいには自分で戻れるようにしておいたほうがいいんじゃないかなー、って」
確かに、それはナナシの言う通りだろう。彩音は元来、それほど社交的な性格であるとはいえないし、四六時中も誰かと一緒にいるのは、息が詰まるかもしれない。
ナナシは、確かに取っ付きやすく人好きのする雰囲気だが、それでも内向的な彩音からしてみれば、人付き合いに疲れてしまいそうにもなるだろう。
その辺り、ナナシも気を遣っているのかもしれない。明らかに自分より幼く見えるナナシにこれほど気を遣われて、彩音も少しばかり気恥ずかしくなってしまう。
「……なんだか、ごめんね、ナナシくん」
「ええ~っ? 謝られる意味がわかんないってば」
「ふふっ、そうね……ありがとう、よね」
「うーん、そうなのかな? うん、でも、悪い気はしないかなぁ~」
照れ臭そうに指先で頬を掻くナナシに、彩音もまた、つい失笑してしまうのだった。
――――――――
万魔殿の出入り口、つまり玄関先の大広間まで到着して、ナナシが中央奥に見える二対の階段を指差した。
「実は、あそこの階段を上っていくと、アスモデウス様の部屋はすぐそこなんだ。横の通路とかに入っちゃうと、迷路みたいになってるから気をつけてね。迷ったら、一回この大広間まで戻るといいよ。でもここって、アイツもよく来るから、ちょっと危ないんだけどね」
アイツとは、あの大男のことを指しているのだろう。今にも現れそうな気がして辺りを見回す彩音に、ナナシが笑いながら声を掛ける。
「あははっ、大丈夫だよ。この時間は大体いつも休んでるからさ。それに休んでなかったとしても、大声で呼んだりしない限りは、滅多に出くわさないしね」
「……そ、そうなの? 本当に?」
「うん、なんてったって、万魔殿は広いからね。おねえちゃんはいきなり出くわしちゃったみたいだけど、あの時は運が悪かったね」
「えっ? あっ。……そ、そうね、運が悪かったわっ」
初めて万魔殿を訪れた時、そういえば大声で誰かいないか呼んでいた気がした彩音だったが、その記憶は積極的にスルーすることに決めたようだ。
その辺りには気付いていないらしく、ナナシは頷きながら返事する。
「うんうん、よほど運が悪くない限り、そうそう出くわしたりは――」
「グルゥォオ……」
「――……しない、はずなんだけどね?」
彩音達がいる場所の反対側の通路から、大男が唸り声と共に顔を覗かせる。彩音は身体を震わせながら、彼を指差した。
「……あ、ああ、あの、ナナシくんっ……あ、あれ、あれって……」
「……うーん、この時間帯は休んでるはずなんだけどなぁ……よほど運が悪いのかなぁ? それとも……」
ナナシが口元に指先を当て、縁起の悪い推測を続ける。
「おねえちゃん、アイツに気に入られちゃったかも?」
ナナシが不謹慎なことを口にするのと同時に、大男が――
「グゥゥ、ボォァアァァァ!」
雄叫びを上げながら、彩音達に襲い掛かってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます