2-04

 部屋に入った彩音は、ピアノを見ないように意識して、ベッドへと腰を下ろした。そこから跳ね返ってくる弾力も、彩音が愛用するベッドと全く同じに感じる。


「……っ」


 目線がピアノへと向きそうになるのを、彩音は必死で堪えた。


(――私にはもう、必要ない物よ。見たくもないって、だから捨てたのに――)


 ぎりっ、と歯噛みした自分に気付くと、彩音は慌てて口元を左手で押さえたが、ここには自分以外に誰もいないことを思い出し、小さなため息を吐いた。


「……はぁ」


 沈んだ気分で彩音が俯いていると、扉を、コン、コン、とノックする音が響いた。


「あ……そうだったわ」


 ナナシがまだ部屋の前にいることを思い出し、彩音が扉の前まで歩み寄る。ゆっくりと扉を開くと、そこにはやはりナナシが立っていた。


「どう? おねえちゃん、落ち着いた?」


「……さっきよりはね」


 どうにも気分は沈んだままで、短い返事しか出来なかった彩音に、それでもナナシは初めて会った時とまるで変わらぬ笑顔を見せる。


「そっかぁ、よかった。あ、ところでさ、おねえちゃんの部屋、入ってみてもいい?」


「えっ、あの……え、ええ、いいわよ」


 何となく躊躇った彩音だが、とりあえず了承の返事をする。ナナシはそれを聞いてから、ゆっくりと室内に足を踏み入れようとした、が――


「それじゃ、お邪魔しま――すびっ」


 見えない壁で阻まれたように、ナナシの身体が途中で止まる。驚いたのはナナシより、むしろ彩音のほうだった。


「えっ? な、ナナシくん、何してるの? ……パントマイム?」


「えっ? パントマイム? なにそれ、なにそれ?」


 見えない壁に阻まれたことより、彩音の発した単語のほうが、ナナシにとっては興味の対象となるようだった。しかし彩音には、なぜナナシが入ってこないのか、本気でパントマイムだとは思っていないし、今しがた起こった現象のほうが気にかかる。


「あの、ナナシくん、どうして」


「パントマイムって、なんかパンデモニウムと似てるよね。親戚みたいなの? パン……もしかして、食べ物だったりして。ねえねえ、教えてよ~、おねえちゃ~ん」


「ちょ、ちょっとパントマイムのことは、一回だけ置いておいてもらっていい?」


 そう言われて、ナナシは渋々ながら質問を中断し、彩音の疑問に答えた。


「う~、しょうがないなぁ……えっとね、僕がおねえちゃんの部屋に入れないのは、おねえちゃんが僕を部屋に入れたくない、って思ったからだよ」


「えっ、ええっ? 私、そんなこと思ってないわ。現に、入ってもいい、って言ったじゃない。ナナシくんだって、聞いてたでしょ?」


「あ、うーん、そういうことじゃなくってねぇ。えーと、深層意識? っていうのかな。意識のコンテ……根底? で、少しでもそういう部分があったらね、入れなくなるんだ」


 そう言われて彩音は、了承はしたものの、何となく躊躇った自分を思い出した。今しがた出来たばかりの自分の部屋とはいえ、更にこんな小さな子が相手といっても、家族以外の男性を自分の部屋に上げた経験など、今まで一度たりとも無かったのだ。


「……ご、ごめんね」


 何となく申し訳なくなって謝った彩音に、ナナシはきょとんとした表情を見せる。


「えっ? 謝る必要なんてないよ? だって、多分こうなるって思ってたしさ。おねえちゃんくらいの女の子の部屋だと、いきなり入れることなんて滅多にないもん」


「……え、ええ~っ……? じゃあ、何で入ろうとしたのよぅ……」


「確認だよ、確認~。その部屋が、ちゃんとおねえちゃんの部屋になってるかどうかさ」


 部屋の中で不満顔をする彩音に、ナナシは部屋の外から説明を続ける。


「まあ、これでこの部屋はおねえちゃんの物、ってこと。今度からは空き部屋に入っても、何にも無い部屋になってるはずだよ。ここだけが、おねえちゃんの部屋なんだから」


「そ、そう……わかったわ」


 今も部屋の隅にあるピアノの存在を背中に感じながら、彩音は躊躇いがちに頷いた。

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