2-03

「なんで――なんで、これ、だって、嘘よ。捨てたはず――捨てたはずなのにっ!」


 しかし、そのピアノは、確かにそこにある。


 彩音がを、見間違えるはずもない。幼い頃から、ずっとそのピアノで練習をし続けてきた。形も、大きさも、古い傷跡も――全てが、彩音の知っているだった。


「――いっ、いやあっ!」


 彩音は思わず、転がるようにして部屋を飛び出してしまう。その部屋の扉に体重を預けながら、ずるずると地面にへたり込んでしまった。


「はぁっ――はぁ、はぁっ」


 激しく息を切らしながら、自由に動く左手で、彩音は胸の真ん中を掴み上げた。動悸を押さえ込むようにして、しかしどれほど強く握ろうと、鼓動は落ち着かない。


「……おねえちゃん、大丈夫?」


「はっ、はっ……な、ナナシくんっ……」


「え? わわっ、どうしたの?」


 彩音が胸を押さえていた左手を、ナナシの右手へと移動させる。いきなり片手を掴まれたナナシは驚きながら、だけどその手を振り払おうとはしない。


「ごめんなさい、ナナシくんっ……少しだけ、こうさせて……」


「うん、別にいいよ。落ち着くまで、手の一つや二つ、いくらでも貸したげるよ」


「はぁっ……あ、ありがとう……」


 激しくなった鼓動を落ち着かせるように、彩音は再三に渡って深呼吸をした。


 どれほどの時が経ってからか、ようやく落ち着いた彩音が、ゆっくりと口を開く。


「……ありがとう、ナナシくん。あの……急に、ごめんね」


「いいってば、別に~」


 朗らかに、おどけるようにして笑顔を見せるナナシに、彩音は内心で幾許か救われたような心持ちになっていた。


 それにしても、この部屋を選んだのは失敗だった、と彩音は今さらながら思う。捨てたはずのピアノが――仮に似ているだけであったとしても、こんな場所にあるなどとは、夢にも思わなかったのだ。まるで、悪い冗談のようだった。


「……やっぱり、ナナシくんの左隣の部屋にするわ」


「えっ? うん……別にいいけど、でもさ」


 ナナシが何か言い終えるより先に、彩音は部屋の扉を開け放つ。


 その瞬間――彩音は再び我が目を疑うこととなった。


「――えっ――」


 先ほどの部屋と全く変わらぬ部屋が、そこにあった。


 鏡に映したように同じ部屋――あのピアノも。


「……っ!」


 先ほどと同じように、彩音は慌てて部屋を出た。今度はそれほど息を切らしてはいなかったが、頭の中はもっと混乱している。


「……どこの部屋にしたって、同じだと思うよ?」


 不意にそんなことを呟いたナナシの顔を、彩音が食い入るように見つめる。ナナシはどこか慣れた様子で説明を続けた。


「空き部屋を自分の部屋にしたらさ、その人の必要とする物っていうのが、その部屋に現れるんだってさ」


「……っ、だけど、だけど私は、必要となんてしてないっ! だから捨てたんだもの! いらないから……いらないから、捨てたんだからっ!」


「うーん……でも、そういうものだって、アスモデウス様は言ってたんだ。アスモデウス様が言ったんだから、やっぱりそうなんだよ」


 それなら尚更、彩音には信じられない。誰が何と言おうと、信じたくなかった。


 それでも、ナナシは彩音の望まぬことを告げようとする。


「そこにがあるのなら、それはおねえちゃんが、心のどこかで必要だと――」

「嘘よっ!」


 最後まで聞ききらない内に、彩音は耳を塞ぎ、座り込んでしまった。ナナシは少しだけ呆気に取られながら、しばらく間を置いて、彩音が落ち着いた頃に口を開く。


「うーん……だけどさ、おねえちゃんの部屋がそうなっちゃったんなら、その部屋に住むしかないよ。多分、別の空き部屋を開いたって、同じ結果になっちゃうだろうし」


「……そんな……」


「その部屋に住むのがイヤだったら、外で寝るのも自由だよ。でも、そんな風に無防備でいると、寝てる間にアイツに襲われちゃうかも……」


「そ、それは嫌よっ!」


「じゃあ、その部屋に住むしかないよ」


 あっさりと結論付けたナナシが、彩音が入ろうとした二つの部屋を指差す。


「それで、結局どっちにする? 完全にここ、って決めるまでは、まだおねえちゃんの部屋にはなってないから、まだどっちもおねえちゃんの部屋じゃないよ。完全に決めたら、もう別の部屋を自分の物には出来ないからね」


「う、うう……わかったわよ……」


 完全に納得できたわけではないが、それでも、あの大男の脅威に晒されたまま外で眠るのよりは、ずっとマシなはずだ。


 結局、彩音は最初に選んだ部屋、ナナシの部屋の真向かいを選んだ。その部屋に足を踏み入れるのは躊躇われたが、いつまでもそうしてはいられないのだ。

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