1-09

 アスモデウスの部屋を出た彩音が、ぺたりとその場に尻餅をつく。


「――はぁっ、はぁ――」


 何か不思議な体験をしていたようだ、と彩音は呆けた頭で考える。


 いつの間にか姿の変わっている女性。話している間、ずっと圧し掛かってきた威圧感にも似た感覚。上から頭を押さえつけられているような、まるで、圧倒的に高位の存在と接しているようだった。


 彼女が――アスモデウスが言うことを素直に飲み込むのならば、彼女が大悪魔だからこそ、なのだろうか。


 何もかもが、この世のものとは思えない。そもそも、この万魔殿と呼ばれた場所でさえ、彩音の暮らしていた場所とは、明らかに異質な世界である。


 じわりと背中に滲む汗を、頬を伝った冷たい汗を、彩音は拭おうとさえせず、ただただ呆けて座り込んでいた。


 制服の上から、胸の辺りを掴もうとする。その時、彩音が一つの違和感に気付いた。


「……あ、あれ?」


 いつの間にか、ずぶ濡れだった制服が乾いている。いや、制服だけではない。彩音の身体も、髪も――濡れているのは汗が伝う部分だけで、雨によるものではなかった。


 いつの間に乾いていたのだろうか――と考えを巡らせようとした、その瞬間。


「おねーえちゃんっ! お疲れ様っ!」


「きゃっ、きゃあああっ!!」


 いきなりナナシに声を掛けられて、彩音は思わず叫んでしまう。ナナシもいきなり叫び声を上げられたことで、目を回しそうになりながら耳を塞いでいた。


「う、うう、う……? お、おねえちゃ……?」


「あっ……ご、ごめっ……ナナシくん、大丈夫?」


「う、うーん、耳がキンキンいってるよ……」


「ご、ごめんね……」


 申し訳無さそうに謝る彩音に、しかしナナシは笑ってみせた。


「んーん、いいよ。アスモデウス様と話して緊張した? 挨拶した人は全員、そう言うんだよねー。僕はよくわかんなかったんだけど、何でかな?」


「……ナナシくんも、あの人と会った時は、その……アスモデウス、さん? あの、見た目とか変わったりしたの?」


「うん! ちょっと目を離したら、すぐ変わっちゃってさ。驚いたけどね、でも、面白かったかも。ただ、理由を聞いても『そういうものなのだ』としか言ってくれないんだよ。アスモデウス様ってさ、偉い人みたいなんだけど、ちょっと面倒臭がりなんだよね。初めて会った時だって、いきなり僕に万魔殿の《案内人》をやれってさ。まあ、僕は別にいいんだけどね。楽しいから」


 お喋り好きな少年の言葉の中に、彩音は少しだけ意外性を感じていた。何となくではあったが《案内人》を務めるこの少年は、元からこの万魔殿の住人だと思っていたのだ。しかし話を聞く限り、どうも違う。


 ナナシは彩音と同じようにここへ訪れたのだ。


「……ねえ、ナナシくんは、〝何〟を失ってここへ来たの?」


 彩音にしてみれば口をついて出てしまった質問に、ナナシは一瞬きょとんとしながら、それでも笑って答えてくれた。

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