1-03

「い、いやっ……なによっ、なんなのよ!?」


 雨水を吸い込んだまま、いまだ乾いていない黒髪を振り乱し、彩音は大男から逃げ回っていた。


 広間から脇に抜ける細い通路の一つへ駆け込んだものの、そこは複雑に入り組んでいたし、自分がどこへ行こうとしているかも分からない。蝋燭のささやかな灯りで薄っすらと照らされた通路は、あまりにも心許なかった。


 ただ、必死で逃げているだけだ。大男は、今も彩音を追ってきている。


「ヴゥゥ……ボォアァァ……アァァァァ!」


 獣のような雄叫びは、徐々に近づいているようだ。このままでは、やがて捕まってしまうだろう。捕まったらどうなるのか、想像するだけで彩音の肌は粟立った。


 通路の左右に居並ぶ部屋を目視した彩音が、すがるように扉を開こうとする、が――


「……ッ! あ、開けて……誰かいるのなら、お願いっ!」


 右へ、左へ、手当たり次第に扉を開こうとするが、ビクともしない。


「お願い……助けてっ! 中へ入れてっ!」


 外側から鍵穴が見えないのだから、内側から鍵でも掛かっているのだろう。だとしたら、中には誰かがいるはずだ。それなのに、彩音の必死の呼びかけに、扉は応えてくれない。


 物言わぬ扉を開こうと力を込めていた右腕が、ずきりと痛む。


「痛ッ……」


 思わず右腕を押さえた彩音の目が、暗く沈む。


 ――なぜ自分は、こんなにも必死になって逃げているのだろう。


 そう思った彩音は、急に何もかもがどうでも良くなってしまった。


 あの大男に捕まって、仮に殺されるのだとしたら、それがなんだというのか。


 ――別に、どうでも良いではないか。自分にはもう、何も無い。生きる《希望》なんて無いというのに、生に縋り付いて何になるというのか――


 その結論に達した彩音は、その場で立ち止まってしまった。迫り来る大男の足音にも、雄叫びにも、もう何の反応も示さない。


 ――もう、どうでも良いや――


 そんなことを思いながら、俯いてしまった彩音の左手を――


「おねえちゃん、こっちっ!」


 甲高く幼い声の何者かが、勢い良く引っ張った。


「えっ……えっ? ちょ、ちょっと!」


「ほらほら、早く! アイツに捕まっちゃうよっ!」


 ぐいぐいと引っ張ってくる手に戸惑いながらも、彩音は。


「……も、もうっ、いきなり何なのよっ!」


 


 手を引かれながら、だけど確かに、自分の意思で。


 ――、走り出した。

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