8-3 本当に?
* ユリア・シュバリアス
溜まった報告書を片付けていた手が止まる。分隊室を重い空気が満たした。
「いま、何とおっしゃいましたか……?」
ハルが掠れそうな声で尋ねる。入り口の前に立っていた分隊長は、彼女の側まで来ると、見たことないくらい真剣な顔で言った。
「顔の右半分に大きな傷がある男だ」
見開かれたハルの目に、強い憎悪が色濃く滲んだ。机に置かれた両手は強く握り込まれて震えている。
どうしたんだろう。
分隊長が直接任務を伝えに来るのもおかしい。いつもなら司令班からデバイスで伝えられるはずなのに。しかも、分隊長は少し焦っている。
「は、ハル? どうしたんだよ……」
イロハが戸惑いながら二人の顔を見る。
「ああ、二人は知らないか」冷たく響く分隊長の声。「そいつは……」
分隊長の言葉が詰まり、
「私の仇よ」
ハルが遮った。
私とイロハは面食らう。
「他の隊員が全員そいつに殺されて、そのせいで私は異能を満足に使えなくなった」
その目から溢れ出ていた憎悪は収縮、凝縮され、一つに固められているようだった。
少しの沈黙がその場を支配する。
唖然とした表情の後、イロハが言った。
「……そんな奴の相手を、なんで任務として命じられるんですか」
私も気になった。
仇というのは、要するに私情だ。任務に私情を持ち込むのは賢くないと誰もが知っている。そういう意味では、ハルにこの任務は明らかに向いていないはず。
イロハは多分、珍しく怒っている。ハルの精神に負担をかけるこの采配に、怒っている。その事に気づいているのかわからないけど、シマザキ隊長は声を低くして言った。
「そんな奴だからこそだ」
「え……?」
「……」ハルは黙って隊長を見つめる。
「これは軍司令と部隊長の判断だ。特務部隊の人手不足が深刻化している今、ハルにトラウマを克服してもらわなきゃ困るってことだ」
きっと分隊長も納得していない。
ハルはこの任務に参加しない限り、過去を克服出来ない。軍司令も部隊長も、そしておそらく分隊長も、そう思っているんだろう。それでも分隊長は、ハルにかかる負担とリスクを無視しきれずにいて、だけどその二人が判断したから仕方なく従っているんだ。
ハルの異能には、そこまでして復活を促す程のポテンシャルがあるって事か。
「そんなの! ……ハルの意志を無視した押し付けじゃな——」
私はイロハの言葉を腕で遮った。
ハルが彼に向けて言う。
「イロハ。私は大丈夫」
「ハル……」
イロハの声が震えた。分隊長の顔もどこか悲しそうだった。
ハルは立ち上がって、レイピアを腰のベルトにつけて言った。
「行きましょう。必ず終わらせてみせます」
二人は少しだけ、ハルを甘く見ていたようだ。今この瞬間においては、彼女の意志を無視していたのは、彼らの方だった。
シマザキ隊長の全身の力みが、フッと抜け去ったのを感じた。
イロハは片手で顔を覆いながら言う。
「ごめん、ハル。俺が余計だった」
「ううん、ありがとうイロハ」
束の間の沈黙のあと、イロハは顔から手を離し、立ち上がった。口角だけはほんの少しだけ上げられているようだった。
シマザキ隊長がドアに向かう。
「それじゃあ行こうか。馬車はもう準備してある」
先に出ていった二人に追いつこうと走り始めた時、イロハが立ち尽くしていることに気づいて足を止める。
「怒られちゃうよ?」
声をかけると、自分の握りこぶしを見つめていたイロハが、神妙な顔つきで私を見た。彼は何か言おうとして、押し留まる。
「さっきの事なら気にしなくても、」
「いや、違うんだ」
彼らしくない顔をしていた。また少し下を向いて、イロハは続ける。
「多分、迷ってる。俺は正しいままでいられるのかって」
「あー……」
先の過激派組織が誰も殺していないという事実を、イロハは今日知った。その時の彼の表情からして、随分気が動転した様子だった。
イロハは、その組織の構成員のうち少なくない人数を殺していて、しかも人を殺すのは初めてだったはず。彼の言う“迷い”は、もしかしたらそこから来ていて、次の任務に対する不安なのかもしれない。
「ま、私にもよくわかんないけどさ」
イロハの傍に行って、その手を取った。
彼を引っ張って二人の後を追いながら続ける。
「何が正しいかなんて、重要じゃないと思うよ。イロハ自身がやりたいことをやればいいだけじゃない? そうしてれば迷わないし、不安になったりもしないよ」
「……そういうもんかな」
「そうだよ。私がそうだもん」
”相手が人を殺しているかどうか”でひっくり返るようなものは無意味な気がする。そんな物に縋っていて、息苦しくならないのかな。
でもそれを口に出すことはよくない。この間の経験で学んだばかりだ。
しばらく走っていると、イロハが一言こぼす。
「ちょ、ユリア、いてえって」
「あごめん」
慌てて手を離す。
握りすぎたかな。恥ずかし。
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