6-3 強さ

* ペトラ・クローディエ


 面談室の窓から、清らかな風が吹き込んでくる。カーテンがゆったりと優雅に揺れていた。中央拠点併設病院の繁忙ぶりを知らないとでもいうように。


「うん、大丈夫そうだね。仕事には復帰できると思うよ」


 ブライト先生は手元にある資料や写真を見ながら、湿り気のある声でそう言った。


「大したもんだよ。ひどい目にあっただろうに」


 先生は温厚で優しげな顔つきだが、表情は真剣だった。

 ひどい目に、か。そんな表現で表せているのか分からないくらい酷かった。さらに体が無傷なせいで、ここに来てからも何度か死にたくなった。でも死ぬのはダメだ。


「アランはまだ起きないんですか」


 問うと、先生の顔色ははっきりと曇りを見せる。


「……正直なところ、いつ目を覚ますのかはわからない」

「そうですか」


 当然、わかってる。あの傷でひょっこりと目を覚ます方がおかしい。当たり前じゃないか。


「あの後は、どうなったのですか」


 紛らわすように質問を重ねる。


「魔物は特務部隊が討伐したよ。街に被害は出ていない」


 微かに安堵の息が漏れた。壁は破壊されていたのだから、特務部隊がもう少し遅ければ大惨事になっていたのは考えるまでもないことだ。彼女らは無事なのだろうか。


「壊された壁は、とりあえず同じ構造で修復されるらしいね。それが応急処置にしかならないことは上もわかってるから、軍司令が新しい防御構造の開発を急かしてる」

「そうですか」


 開発なんて、すぐには完了しないことが明確になってるようなものじゃないか。

 まあ、今はどうでもいいことだ。


「すみません、お願いしたいことがあるのですが」

「なんだい」


 殴り飛ばされた怪物。キャンセラーをつけていない少女。


「仕事の復帰を、遅らせることはできませんか」

「いやあ……申し訳ないけど、虚偽の報告をすることは」

「お願いです。彼女に会わなければ、平静を保てる自身がありません」


 会わなければならない。会って確かめなければならない。あの正体を。

 先生は顔をしかめてしばらく考える。こういう言い方をすれば、立場的に断りづらいはずだ。

 彼は説教をするような表情になって言った。


「……わかった。心の傷として報告しておこう。ただし、三日間だけだ。いいね?」

「ありがとう……ございます」


 決して余裕のある長さではないが、十分だ。

 平静を保てる自信がないというのは嘘のつもりだった。けど、あるいは間違っていなかったのかもしれない。彼女を確かめない限り、私は以前のように仕事に戻ることも、目を覚ましたアランに笑いかけることもできないような気がする。



* イロハ・メローニ



 扉をノックしようとした拳は、一度空中で静止したけど、ハルのあの顔を思い出して、無理やり三度打ちつけた。


「ハル。いるか?」


 返事はない。

 やはりすんなりとはいかないか。と思った時、扉が空いた。


「イロハ……どうしたの」


 ちょうど顔が見えるくらいの幅だけ空いた隙間から、ハルは浮かない顔を覗かせていた。「どうしたの」という言葉には、きっといろんな意味が込められているんだろう。


「ちょっと外で話さないか?」



 拠点内にある花壇の側の、ちょこんとしたベンチに二人で腰掛けた。雰囲気に似合わず、天気は快晴。幸い、日差しはそこまで強くない。

 ハルは俺の提案を聞いて少し渋ったが、意外にもすんなり承諾してくれた。


「どうやって女子寮に入ったのよ」


 開口一番に彼女は問う。


「まさか勝手に?」

「違う違う! ルシアが無理言って許可をとってくれたんだ」

「そう……ルシアが」


 ハルとルシアは同期だ。ルシア曰く「私も多分あんまり好かれてないと思う」とのことだったが、訓練生時代に結構関わりがあったみたいだ。

 当の本人はすぐに任務に出てしまったけど。


「イロハには、悪いと思ってる」


 ハルが顔をしかめながら、絞り出すようにそう言った。少し待ってみたけど、続ける様子はない。


「俺は別にいいよ。最初はびっくりしたけどさ」一呼吸置く。「ユリアにも、そう思ってるのか?」

「どう、なのかな」


 隣のハルは下を見て、少し首を傾げる。


「ひどい事を言ったと思ってる。でも、なんていうか……」


 彼女は膝の上に置いた両手を強く握り合わせた。


「私の中に、ずっとずっと重なってきた本心だから、あれでよかったって思う自分もいて……だけど思ったことをそのまま言うのが正しいわけじゃないのもわかってて……」


 しばらく待ってみたけど、そこで彼女の言葉は途切れたままだった。

 きっと、ハルの頭の中はグチャグチャになっている。それはあの時も同じ。今は理性的な精神状態を装ってるみたいだけど、彼女が理性的なままだと、俺が会いに来た意味は多分なくなる。


「俺さ、ハルのこと頼ってばっかで、なんにも知らなかった。俺たちはまだ関わり始めて日が浅いけど、もっと早く、本当のお互いを知るべきだったんだ」


 ハルは黙って下を向いたまま、俺の話を聞いていた。


「だから手始めに、俺に教えてくれ。ハルのこと」

「……わたしは」


 彼女は言いかけて、引っ込めた。そして、長い沈黙。花壇の色とりどりの花をぼーっと眺めながら、俺は待った。


「わたしは、みんなに期待されてた」


 下を向いたまま、彼女は語りだす。


「でもそれを、ぜんぶ裏切っちゃって」

「うん」

「周りからは幻滅された。恩師でもあるお父様とは、怖くて連絡も取れなくなって」

「うん」

「しばらくして、お父様が病気で死んだ事を知った」


 その言葉には、何も反応できなかった。


「それからは恐怖が復讐心になった。その頃には私の事をジロジロ見てくる人も少なくなった」


 周囲からの幻滅、憐れみ、嘲笑、それに重なる父親の死。つい先日までハルが普通に過ごしていたことが、奇跡のように思えた。

 中央拠点では今日も多くの隊員が行き来している。彼らの顔が、まるでハルの世界と無関係であることを装っているように見えた。


「……ユリアは、私の上位互換だった」


 ハルは顔をあげ、雲のない空を見上げた。


「ユリアは目的の為なら、怖さを知らない。あの純粋な意志と強さが、眩しかった」

「うん」

「憧れて、羨ましくて、妬ましくて、でもそんなユリアが好きで。最初はただの嫉妬だと思ったのに、けど不快感は不自然に大きくなっていって」


 あの時のハルの顔を、もう一度思い出す。あれは、嫉妬の顔じゃない。

 そこで一旦話が途切れたかと思うと、ハルは俺の顔を見て言った。


「私、ユリアに対する気持ちがわからなくなっちゃった」


 それは、呆れてどうする気も失せたような顔だった。

 ずっしりと、心臓が重くなった。

 俺は数秒かけて、空中を見上げて言った。


「カッコいいよな、ユリアって。眩しくて、たまに火傷しそうになる」


 思い上がるな。俺には、彼女の心をすぐに解きほぐすことはできない。


「俺も自分の事しゃべっていいかな」


 尋ねると、ハルはほんの少し笑って頷いた。言い方がちょっとバカっぽかったかもしれない。

 通り過ぎる人々を適当に眺めながら、語り始めた。


「俺さ、学校の成績は良かったけど、昔から運動はダメなんだ。今はだいぶマシになってきたけど、貧乏なのもあって、以前はほんとに体が弱くてさ。だから結構バカにされたんだ。良いのは成績だけで、戦闘は大した事ないって。それがものすごく悔しくて、嫌だった」


 ハルは黙っていたが、細かく頷いてくれていた。


「ユリアと戦ってみて、心の底からすげえって思ったよ。覚醒能力が無いのに強いのもそうだし、迷いとか、妥協とか、劣等感とか、そういうものがないんだよな。しかも他人思いで優しいし」


 いつの間にかユリアを執拗にベタ褒めしていることに気づき、おかしくなって少し広角が上がった。


「ユリアに身体強化をかけてサポートした時、嬉しかったんだ。俺にしかできないことがあるんだ、俺もあいつみたいに真っ直ぐ生きられる、って。けどやっぱり、ユリアを見てる時点で、あいつみたいにはなれないんだろうな」


 そう言って、ハッとした。しつこく喋りすぎた。こういう場面で語りすぎるのは非常に良くない。


「そうね」


 ハルは正面を見て、一言だけそう言った。俺は焦った。


「ごめん、勝手に語りす「本当に、その通りだわ」


 それを聞いて、俺は黙るしかなかった。決して俺の話で腑に落ちたわけでもないし、心を動かされたわけでもない。彼女自身が俺の言葉を使って、自分の心を少しだけ片付けたのだ。

 ハルは弱くない。絶対に。


「ありがと、少し楽になった気がする」


 ハルは立ち上がり、少しだけ暗い顔でそう言った。


「おお、それなら良かった」


 ハルは強いよ、と言おうとしてやめた。今の彼女にとって、それが褒め言葉になるかどうかはまだわからない。それに、ハルはきっと大丈夫だってユリアも言っていた。俺が無理に助けようとする必要はない。

 ユリアはあの時既に、ハルのこの・・強さを見抜いていたってことか。すごいな。

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