5-1 無頓着?
中庭への扉を開けると、虫の声が少し大きくなった。夜のなかに中庭の風景が照らし出されていた。
小さめの民家一つ分くらいの広さに、瑞々しい黄緑色に色付いた芝生が元気に生えそろっていて、その空間を黄色味のあるレンガの壁と長方形の窓が囲っている。中央にはこぢんまりとした謙虚な噴水が設置されており、その両サイドには木が二本立っていた。一本は深い緑の葉を付けた、背の高い木。もう一本の木は少し背が低く、赤や黄色の混じった柔らかい色の葉をつけている。
高い方の木の幹に、ハルが寄りかかって立っていた。
「ハル、体はもう大丈夫?」
「起きたのね」
私の言葉に、彼女は目線すら動かさない。ずっと足元を見ているだけだった。
「私は問題ないわ」
そういう彼女の首や腕に、包帯が巻かれているのが見て取れる。重症とまではいかないのかもしれないが、問題なくないのは明らかだった。
でも一番問題なのはきっと、体じゃない。
「悩み事があるなら、聞かせてほしいな」
私は素直にそう尋ねた。それが一番いいと思ったから、そう言った。
横にいるイロハが、眉をハの字にしてこちらを見たのがわかった。だけど、私はあくまでハルを見つめる。
彼女はしばらく沈黙した後、目線だけを正面に向け、噴水と背の低い木の方を見た。そして、
「悪いけど、一人にしてもらえる?」
そう、口にした。だから、
「それは……やだよ」
と答えた。
ハルは目を閉じ、眉間に皺を寄せた。
イロハが再び私を見る。さっきよりも不安そうだが、気にしない。
一瞬だけ強めに風が吹いて、二本の木の葉が音を立てて揺れた。
私は続けて言う。
「ねえ、ハル。ハルが自分のことを話す時、どんな顔してるか知ってる?」ハルは訝しげに私の顔を見た。「足元の斜め下……ずっとずっと下を、高い所からぼーっと眺めてるみたいな顔をするんだよ」
一瞬、間が空いた。風も、虫の声も止んで、噴水の水の音が大きくなった。
「最初はなんとも思わなかったけど、今は思うんだ。ハルにあんな顔はしてほしくないって。だから話してほしい。私、ハルのこと大好きだからさ」
雲で隠れていた月光が姿を表し、庭に降り注いだ。
月光に照らされると同時に、ハルの目が大きく見開かれた。
揺れる瞳で数秒間私を見つめると、ハルは歯を食いしばりながら、ゆっくりと目を瞑る。そして、首を震わせながら、俯いた。その顔が見えなくなった。でも、どんな顔かはだいたいわかる。
彼女は言った。
「私は……嫌いよ」
その声は少し力がこもった程度で、概ね普段通りのハルの声だった。
きっと、相当抑えたんだろう。
イロハは心底驚いている様子だった。
「ハ……」
彼が何か言おうとしたとき、私とイロハの間を、ハルの腕が貫いた。
ハルは真っ直ぐに、私たちが入ってきた扉を指さしていた。
「行って」
ハルは扉を指さしたまま、そう言った。さっきよりも明らかに低い声だった。
イロハを見ると、彼はとても苦しそうな顔をしていた。
私はイロハの手首を握った。彼が私の顔を見る。私は、扉の方を目線で示した。
* ハニエル・コンテスティ
二人が中庭から出て行った。
私は、その場で座り込んだ。
自分の腹のあたりを、意味もなく眺める。芝生の水分で、患者衣のズボンが濡れた。
自分という容れ物に入っていたガラクタを、全て乱暴に放り出した後のような、空っぽな気分だった。
「……」
私は貴族の家に生まれた。
私の家は、代々優秀な異能使いを生み出すことで力をつけてきた。そんな一族の中でも、私の異能は、天啓とさえ言われた。
「人のために力を使え」というのが家の教えだった。当然、私もその教えに忠実になった。
家の教育は、勉強、剣術指導、異能の修練、これら全ての機会を存分に提供してくれた。その結果、私の異能は順調に成長していき、周りの者は例外なく私の力を称賛した。
そして、私は碧選軍に入隊した。家の教えに従って、多くの人々を助けるというのが私の目標だった。
試験は雑作もなかった。配属されたのは、特務部隊。
入隊してから、私の異能は更に練度を高めていった。特務部隊では、ちょっとした有名人にさえなった。入隊から一年で階級が上がり、そこから半年経った頃には、上官から「さらにもう一つ上がるかもしれない」という話も聞いていた。
だが、そのすぐ後で、全てが崩れ去った。
ある任務で、私の分隊が壊滅した。
とある異能使いに、私以外の三人を殺されたのだ。それだけじゃない。応援に来ていた分隊も、全員そいつに殺された。
私は何もできなかった。恐怖で、体も異能も動かなかった。
ボロボロの分隊長に、逃げろと言われた。何度も。強い声で。
気づけば、私は全力で走っていた。頭は空っぽだった。ただ、本能に従って、逃げた。
その後、私の異能は使い物にならなくなった。練度と共に緩和されていくはずの出力制限、「リミット」が、絶望的なまでに厳しくなった。私の異能の最大出力は、幼少期と同程度になった。
原因は、あのリアンという少年と似ている。恐怖と、トラウマだ。私の中に、あの日の記憶が刻みつけられているからだ。
それから、いろいろなことがあった。半年間の休職の中で、私は異能を鍛え抜いた。しかし、成長度合いはほんの僅か。
徐々に徐々に、私の中で確かな復讐心が宿っていった。
私はトラウマの根源を断つために、私の分隊を壊滅させたあいつを捕まえる。
それを決意し、私は特務部隊に復帰した。
そして、ユリアに出会った。
『私は嫌いよ』
自分の口から出た言葉が、自分の中でこだまする。
何度も何度も、反響する。
ずっと、自分の感情から目を背けていたんだろう。
中央拠点の敷地内で、初めてユリアと話した時の印象は、根の強い女の子だなという程度だった。だけど私は、初日から違和感のようなものを感じていた。彼女の言葉を聞いていると稀に現れる、腹の底から染み出して頭を侵すような、不快な何かだ。
けど、今ならその正体もわかる気がする。
ユリアの「強い」は、私の想像をはるかに超えていた。今の私は、彼女には到底叶わない。どころか、彼女の下位互換だ。身体的にも、精神的にも。
戦闘能力の差は、模擬戦の時、既に思い知らされていた。私が彼女に勝つことができたのはまぐれに近い。あの時の私には、手の内が明かされていないというアドバンテージがあった。それを最大限に活かした上で、かつ彼女が些細なミスをしたことで、かろうじて勝ることができたに過ぎない。二日目の戦闘演習でも、彼女と分隊長の攻防を見れば感覚的にわかった。ユリアの戦闘能力は、明らかに今の私よりも上だ。
今日の情景が蘇る。ユリアが火事の中に飛び込んでいった。彼女が駆け出したその時、取り残された私は、形容しようのない不快感に全身を食い尽くされていた。本当に訳がわからなかった。
そして、その後で彼女が放った言葉。
『私は私として死んじゃうから』
あの時は、まだその不快感に対して見て見ぬふりができた。
極め付けは、今日の緊急任務だった。私はまた、何もできなかった。でもユリアは、任務達成に大きく貢献していた。私よりも戦闘能力の高い人はいくらでもいる。だけど、覚醒能力を持たない彼女の「強さ」は、異能頼みで戦ってきた私にとっては別物だった。
感心は徐々に嫉妬に代わり、無力感から、自己嫌悪に変わっていった。
『私は嫌いよ』
どうして、あんなことを言ってしまったのか。嫉妬や無力感が、嫌いという感情に繋がったからなのか。
いや、そんなはずない。
そんなわけが、ない……。
あの子が魅力的な人間であることは、十分に理解しているはずなのに。ユリアの人間性が、好きな、はずなのに。
だけど、自分だからわかる。
あれは嘘ではない、と。
私がそれを告げた時、ユリアはどんな顔をしていたのだろうか。
嘘偽りのない言葉のはずなのに。胸の中からウジムシみたいに湧いてくるこの感覚はなんなのか。
彼女はあの瞬間、一体どんな目で、私を見ていたのだろう。
* ユリア・シュバリアス
「とりあえず戻ろっか。勝手に抜け出してきちゃったし」
「あ、ああ」
中庭を出た私とイロハは、病院の廊下を歩いていた。
イロハの元気が戻らない。足取りが重いし、心ここに在らずって感じだ。
「なあ、ユリア」
彼は一度立ち止まって言った。私も足を止め、振り返る。
「なに?」
「大丈夫なのか?」
大丈夫かと言う問い。少し意味が幅広い気がする。
「ハルのこと? 大丈夫だと思うよ。正直に打ち明けてくれたし。時間はかかるかもだけど」
イロハの眉間が上がり、口が少し開いた。それは、彼が驚いていることを意味していた。
「そうじゃなくて、ユリアのことだ」
重い声だった。不自然に思えるほどに。
「私? 私はもう大丈夫だよ」
イロハの表情が濃くなる。困惑とか、唖然とか、そう言う感じだった。
私の容体を心配している訳でもないらしい。
おかしいな。何かが噛み合っていない。
「本気で言ってるのか……?」
あれ、いよいよよくない気がする。
なんだろう。
これは……ああ、そうか。もしかして……あー、そうだそうだ。うっかりしていた。嫌いって言われて大丈夫なのかって話か。えっと、……
「ハルはね、優しすぎたんだよ」私は斜め下に目を逸らした。あたかも落ち込んでいる心を誤魔化すような、乾いた印象になる苦笑いをしてから続ける。「それで色々溜め込んじゃってたみたいだね。嫌いって言われたのは辛いけど、むしろ吐き出してくれてよかった。私、ハルのこと好きだからさ」
そしてイロハを見て、噛み締めた歯を少し見せながら笑った。まるで仲間のために辛さを乗り越えたかのような会話を、私は無意識に演じていた。
演じた? どうして?
「……そ、そうか。そうだよな」
そう言うイロハは、不審に思いつつもどこか安堵したようだった。私の目をじっと見ながら、小刻みに頷いている。
「そうだよな」というセリフは、多分私の話を肯定する意味じゃない。いま彼の心に浮かんだ私に対する不安を、否定する意味の言葉だ。
『お前は、自分への評価に無頓着すぎる』
『その点はお前の欠けた部分として認識すべきだ』
不意に、ニルの言葉が脳裏をよぎった。
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