5-4 セロリ

* ユリア・シュバリアス


 風の足音が聞こえた。体を包み込む湿気のような暖かさが、やまないそよ風に吹かれてどこか涼しく、心地よい。

 閉じていた目を開けた。視界いっぱいに、緑の草原が拡がる。果てしなく続くその先に見えるものはなくて、焼けた空との境界線が一直線に横たわっていた。不思議なことに、太陽はどこにも見当たらない。

 無限すら感じさせるその空間に、言いようのない微かな恐怖を覚えつつ、私からは見えないはずの地平線の先に、うっとりと見惚れてしまう。だけどこの場所を離れてその先・・・を見に行こうなんてことは、微塵も思えない。

 私は少し古びた玉座に座っていた。傷のある黄金の骨組みに、色褪せた赤い布地。玉座と呼ぶにはくたびれすぎているけど、それでも現実で座ることはきっとないだろうと思うくらいには威厳がある。

 後ろを見ると、思った通り、木々が半円状に立って玉座を囲っていた。それらのちょうど真ん中のあたりに、崩れた廃墟がある。蔦に侵食されたいくつかの石の塊となっているそれは、元はどんな建物か検討もつかないし、「元」があるのかもわからないけど、ずっしりとした底知れない存在感をいつも放っている。常に風で揺れる草や木の中で、ピタリと止まって動かないから異質なのかもしれない。

 私は病院のベッドで眠りについたはずだった。つまり今見ているこの景色は、夢ということになる。だけどこの空間には、何度か来たことがあった。


「ニル」


 彼女と自由に話すことのできる、特別な夢だ。彼女が意図的にこれを発生させているわけではないらしいけど、こういう時はだいたい向こうに要件がある。その要件に関して、私には心当たりしかない。


「……ごめんね。私のせいで危険に晒しちゃって」


 きっと怒っているんだろうなとずっと思っていた。今日を通してかなり危険な真似をしたから。


「言っておくがな。私は自分の安全のために言っているのではない」


 顔の真横あたりから、聞き慣れた平たい声が聞こえる。

 それって、私自身を心配してくれているってことだよね。

 だけど、そっちを見ても誰もいないことを私は知っている。


「だが、私もいい加減学んだ。お前に「無理をするな」と言ったところで無駄だとな」

「う……そうかもしれない……」


 私は遠くの赤い空を見て目を細めた。

 言われて直るようなものじゃないと断言できる。直す気もない。


「否定すらできんとは……」


 多分ニルはため息をついた。

 どうやら、怒っているという感じではないようだ。心配? 説教かな。


「まあいい。実を言うと、私にとやかく言う資格はないのだ。お前が覚悟して決めたことならば、私は何も言わない」


 それを聞いて、彼女らしいと思った。ニルは昔からそうだった。私に対して、「体に住まわせてもらっている」という、感謝に似た引け目のようなものを感じているところがある。私としては気にして欲しくないのだけど、どうも難しいらしい。今では仕方ないと思っている。

 だけど「覚悟」という表現は、過大評価な気がする。まるで私が、あえて苦しい道のりを選んでいるかのように聞こえる。他にも楽な生き方があって、それでも大切なもののためにリスクを負っているかのように聞こえる。私の行く先には、たった一本の道しかない。別れ道がないから、ただそこに進むだけ。しかもそれは別に苦しい道じゃない。

 だからニルの言葉を聞くと、なんだか歯痒いような照れくさいようなもどかしい気持ちになって、私はただ頷くことしかできなかった。初めてこの玉座で目覚めた時の感覚に似ている。


「だが、このままよしとするのは私としては納得できない」

「え、なんで」


 急に裏切られた。

 そのまま「私は何があってもお前の味方だぞふふふ」みたいな感じになるのかと思っていたのに。というか何も言わないんじゃなかったの。


「仕方ないから今回は……」ニルは少しタメて言う。「特別にアレで、許してやろう」


 ずっと草木を揺らしていたそよ風が、少し弱くなった。


「……アレって何」


 何かは知らないけど、なるほど、最初からそれ目的らしい。私が断れないような流れをつくって犯行に及んだわけだ。だけど、私が人助けならなんでもいい訳じゃないことを、彼女なら知っているはず。


「アレだ。昔よく食べていただろう」


 食べていた? 食べ物? 何かを作って食べさせろってこと?

 でもニルは味がわからないからって言って、私の料理を好んで食べたことは一度も……

 いや、まてよ……


「……もしかして、セロリの浅漬けのこと?」


 一度だけあった。孤児院の料理当番だったときに、近所から大量に譲り受けたセロリを頑張って処理していた時期だったか。あれだけは進んで食べようとしていた気がする。


「確かそんな名前だったな」

「別にいいけどさ……」


 作るの楽だし。

 たしか、食感をかなり気に入っていたっけ。「これだけは味のようなものを微かに感じる」みたいな事も言っていたような。

 料理は数年間やっていない。理由はもちろん、拠点内にある食堂を使うから。そもそもそんなことをする時間がない。でも、浅漬けくらいなら頑張ればいけるかも。


「よろしい。楽しみにしておこう」


 ニルはいつもの平坦な声でそう言った。食べたかったなら、素直にそう言えばよかったのに。

 そよ風が元気を取り戻し、草原の上をまた駆け回り始めた。草と土の香りが、程よく湿った空気と一緒に運ばれてくる。

 夕焼けは相変わらず真っ赤で、さっきからずっと同じ具合だ。

 玉座の肘置きの近くに、緑の葉が一枚舞い落ちてきた。それをつまんで、目の高さでじっと見つめてみる。


「え、それだけ?」


 ニルがそれ以上喋ろうとしないことに気づいて、私は何もいない左の方を見て言った。


「そうだが」

「そのためにここに呼んだの?」

「私が意図的に呼ぶわけではないと言っただろう。ここに来たから、思っていたことを話しただけだ」

「そっかあ」


 もしかして、この場所に呼ばれるトリガーとなったのは、私の方なのかな。

 空を見上げると、上の方には夜の黒が見て取れた。雲や星は何一つないけと、綺麗だな、と思った。もしかしたら空というのは、それだけで美しいものなのかもしれない。


「ねえ、ニル。この間私にさ、「お前は他人の評価に無頓着すぎる」って言ったでしょ。アレってどう言う意味?」


 突然の問いに、ニルは「ん」と少し間をおいてから、


「ああ、そうか。中途半端な形で終わってしまったのだったな。別に含みがあったわけではない。他人から己に対する評価や感情に興味がないのがお前の長所で、同時に短所だということだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「まあそうだよねえ」


 なんとなく察しはついていた。ニルがああいうことを言うのは珍しいから、言い忘れているなんてことは考えづらい。言いたいことを変に隠すような間柄でもないし。

 今なら、その言葉の意味が理解できる。自分の精神構造が他人と異なることは、多分無意識に理解していたのだと思う。でもニルの言葉で、それがしっかりと目の前に姿を表した。ぼやけていたものが澄み渡った前提・・になった時、私の世界はほんの少しだけ変化したように思えた。


「じゃあなんで、あの時イロハに嘘ついちゃったんだろう」


 あの嘘がずっと気がかりだった。他人にどう思われたっていいのなら、必要なかったはずだ。

 嘘自体を嫌っているわけではないけど、自分のなかにまだ灯りのついていない部分がある気がして、嫌な感じがする。


「確かに、お前にしては珍しい演技だったかもしれないな」感情の乗らない声で、淡々と、当然のことのようにニルは言う。「だが、あの場では合わせなければ少し面倒だった。隠し通すのが不本意なら、少しずつ明かしていけばいい。それが人付き合いというものだろう。そのために嘘をつくというのは、別に悪いことではないと思うがな」

「うーん」


 理解できるような、できないような。なんだかよくわからなくなってきてしまった。でもニルが私のことを肯定してくれているのは、確かなようだった。

 私は手に持った広葉樹の葉を、もう一度近くで見た。表面には綺麗に整ったスジがくっきりと浮き出ていて、ところどころに黄緑や黒の斑点がついている。


「ねえ、私っておかしいのかな」


 何気なくそう言ってみたが、ニルは驚いた様子もなく、「どうだろうな」と言う。それから数秒の間を置いて、


「おかしいの定義にもよるが、真におかしいのは何もおかしくない人間だろう。お前は昔からずっとおかしなやつだ」


 冷静に慰めているようで、それでいてバカにしているような言い方に、私の口から思わず笑いが溢れた。きっと、思ったことを言っているだけなのだろうけど。


「確かにそうかも」


 私はそう言って、背もたれから体を離し、持っていた葉を目の前の夕焼けに向けて掲げた。

 指を離した。葉は風に乗り、どこかへ流れていった。

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