第53話 目を覚ました先は……

 鼻をくすぐるフローラルの香りと、しっとりした柔らかい布目を頬に感じて目を覚ました。 真っ白な天井は壁に備え付けられたダウンライトで薄暗く照らされ、ここがホテルの一室だと気付くのに時間はかからなかった。


 酔って倒れたんだっけ……


 弱いとはいえ酒の席で倒れるとか、情けないにも程がある。 きっと誰かがここに担ぎ込んでくれたのだろう。 陰鬱な気分に寝返りを打ったその時だった。


「…… え…… 」


 そこには響歌じゃない誰かの頭があった。 フローラルの香りはこの黒髪から漂うシャンプーの香りだと理解する。


「ん!? 」


 慌てて掛布団をめくると、そこにはまだ寝息を立てている仁科の顔がすぐ間近にあった。


「えぇ!? ちょっ!! 」


 飛び起きると同時に羽毛の軽い掛布団を撥ね退ける。 仁科…… 何も着てないじゃないか! と、自分も何も着ていないことに気が付いた。


「ん…… 」


 彼女が寝返りをうつと、胸の大きなふくらみがたわわに揺れる。 デカい…… じゃなかった! すぐに彼女に掛布団を掛けると、『あ……』という声を上げて彼女が薄目を開けた。 目が合うと彼女は恥ずかしそうに頬を染めてはにかむ。


「…… えっと…… 」


「あ…… え…… 」


 何も言えない。 というか、何も覚えていない。 だがお互い一糸纏わぬ姿で同じベッドで寝ていたのなら、そういうことなのだろう。


「ごちそうさまでした 」


「こちらこそ…… って、そうじゃないでしょ!! 」


 なんだこれ…… 『行っておいで』と送り出してくれた響歌の笑顔が脳裏に浮かぶ。 これじゃ顔向けできないじゃないか。


「あの…… 僕には婚約者がいるって言ったよね? 僕の方から誘ったとは思ってないんだけど 」


 言ってからバカな質問をしたと思う。 でも僕は何も覚えていないし、真実を知りたい。


「…… 既成事実。 って言ったら怒っちゃう? まだ結婚はしてないんでしょ? 」


 頭が痛い…… 少し寂しげな彼女をずっと見ていることは出来ず、額を押さえて俯く。


「ゴメン、嘘。 君を困らせると分かってても、こうしたかったの 」


「えっ? 」


 彼女は掛布団で前を隠して正座し、頭をシーツに付けて謝ってきた。


「ごめんなさい。 君が酔って倒れちゃってから、私が強引にホテルの部屋を借りて連れ込んだの。 鈴木さんの事で君を慰めるつもりでいたんだけど、私の方が慰めて欲しくなっちゃって 」


「…… とりあえず頭を上げてよ。 どういうこと? 説明してくれる? 」


 ゆっくりと頭を上げた彼女は涙を浮かべていた。 女性の涙は武器になるとはよく言ったものだ…… 僕が弱いだけなのかもしれないが、怒るに怒れなくなる。 備え付けのティッシュで拭ってやると、『ありがとう』と手を握られた。


「昔から変わらず優しいね、君は 」


「そんなことないよ…… 」


 過去に彼女に優しくした覚えはない。 強いて言うなら何度か委員会の手伝いをしたくらいか。


「政略結婚って言えばわかりやすいかな…… 私ね、職場の社長子息と結婚が決まってるんだ 」


「えっ! 政略結婚って…… 」


 彼女は『今時笑っちゃうでしょ?』と涙を浮かべてなお微笑む。


「来年には式を挙げて、私は晴れて玉の輿。 倒産しかけてる家も持ち直せるの 」


「気持ちのない結婚…… なんだね? 」


 『うん』と彼女は俯いて頷いた。 ホントに今時ない話だ。


「いいの? 結婚ってそういうものじゃないよ 」


「うん…… 相手は気に入ってくれてるし、誰でもない私が決めた結婚だから 」


 おいおい…… 結婚も決めてるのにこの状況はどうなのかと思うが。


聡美さとみちゃんに相談したら、同窓会に君が来るって話になって。 一度きりでいいから、本気で好きになった人と思い出を作りたいなって気持ちが強くなっちゃって…… お酒のせいもあって…… っていうのは言い訳だよね 」


 えへへと涙を溢しながら言う彼女。 一晩の過ちでもいいから僕と…… それで仁科は納得出来るのか?


「彼女さんが羨ましいな…… うく…… ひっくっ! 」


 彼女は僕の手を頬に抱え込んで泣き出してしまった。 無理に退ける事は出来ず、親指で軽く濡れた目尻を撫でてやる。


「ひっく…… 優しすぎるよ、君は 」


「泣いてるのに突き放せないよ 」


「ひくよね、こんな女。 初恋の相手を自分で嫌いにさせちゃったかも…… 」


「うーん、微妙かな 」


 彼女は僕の腕を引っ張って抱きついてきて、真っ赤な目で僕を見つめる。 何を言っていいかわからず見つめ返していると、彼女はそのまま唇を重ねてきた。


「お願い…… 一度だけ。 今夜だけでいいの…… 」


 あまりにも理不尽でワガママな要求だが、控え目でおとなしいイメージだった仁科がこんな大胆な事をするのだ。 


 一度きりの本気の恋愛。 震える唇でキスをしてくる彼女を、僕は拒否出来なかった。

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