第1-2話

 

 思わず三下のようなセリフを吐いた五分前。このセリフが出たからというわけではないが、夏美は見るも無残に敗北した。1on1、五本先取、結果は5-1の惨敗。


 (まじで強い…、たしかにうちの先輩たちじゃ手も足もでないかも。)


 冬華の実力は本物だった。ドリブルの切れも、涼しい顔で繰り広げるフェイントも、レイアップのフォームも。あの高慢ちきな態度も実力の表れだと証明され、夏美のなかの苛立ちはほんの少しだけ、納得のできる形に変化していた。


 このまま場所を譲るのは癪だが、負けは負けだ。夏美はボールを片そうとした。


 「こんなに弱いなんて、正直驚いた。」

 

 夏美は何も言い返さなかった。リュックを背負いなおし、冬華を背にそのまま立ち去ろうとする。


 「朝から自主練に来てるから、もっと強いと思ってたのに。ろくな人に教わらなかったんだ、可哀そう。」


 その瞬間、夏美は背負っていたリュックを乱暴に握ると、振り向いた勢いそのままに冬華めがけて放り投げた。バスケットボールの入ったリュックは勢いよく冬華の顔を目掛け飛んでいった。冬華は寸でのところで身を翻し、リュックは痛ましくも跳ね転げて回った。


 「もう一回勝負しろ。五本先取の1on1。」


 「なに急に。それにやる意味がない。さっきでのゲームであなたの実力は大体わかった。何度やっても同じ。」


 「一本でいい。一本でもお前が点を言えれたら即私の負け。これでもハンデが足りない?」


 「……そんな屈辱的な挑発を受けたのは初めて。いいよ、やろう。吠え面かかせてやる。」


 夏美はポケットからオレンジ色のゴム紐を取り出し、髪をくくった。投げ飛ばしたリュックからボールを取り出し、ゆっくりと手に吸い付くようにドリブルをする。


 (いち、に、さん、し。いち、に、さん、し)


 瞼を閉じる。太陽の光さえ届かない、奥深くに眠る記憶を呼び起こすため、夏美は深く、小さく呼吸する。段々と手元に近づいてくるそれを握りしめると、今度は現実世界へと導くように瞼を開けた。


 「何してるの、早くはじめて。時間がもったいない。」


 ◇


 ガコン。


 真っ赤なリングが無慈悲にもボールをはじき返す。苦し紛れのシュートが僅か直径45cmのゴールに入るなど奇跡に近く、そんな奇跡に縋るような人間でないことはこの短時間で良く知っていた。それでも、冬華はそんな小さな奇跡に頼らなくては、ゴールを狙うことすら叶わなかった。


 「はぁはぁはぁくそ、はぁはぁ。」


 「次で最後だけど、まだやる?」


 「うるさい、まだ最後じゃ、ない。」


 冬華は息が整うと開始位置についた。夏美にワンバンでボールをパスすると、すぐさま姿勢を低く戦闘態勢に入り、視線は獲物を狙う狙撃手のようだった。


 冬華はいつもの守備位置よりも深く守り、彼女との距離をひろくとった。夏美のドリブルは、先ほどまでの1on1とは比較にならいほどだった。冬華の動きを誘導するような緻密に考え抜かれた戦略。決して追いつけない速度ではないのに、隙とあればすぐさま懐に攻め込む観察眼。


 最初の一本は油断だった。力まかせに、強引に攻めた結果、あえなくスティール。二本目、三本目はフェイントを入れつつ裏をかこうとして、またしてもスティールされた。四本目、打開策を見いだせないまま、ボールを取られまいと意識しすぎ、無理な態勢でただボールを放ち、失敗した。


 (このスペースなら、例え隙を突かれてもまだ立て直せる。そのままシュートを打とうとしても、この距離からゴールに届かせるには溜めが必要になる。)


 冬華の狙いは動きを誘導することだった。あえて距離を拡げ、夏美にシュートを選択させ、手からボールの離れるその一瞬に全神経を集中し、ボールへと食らいつく。反射神経に頼り切った、作戦と呼ぶには知略に掛ける作戦だったが、今の冬華にはこれが最善だった。


 蝉の鳴く声がうるさい。太陽と、太陽の光を吸ったアスファルトの板挟みで、頭からつま先まで張り付く不快感がぬぐえない。


 冬華の目のを端を、汗が伝う。


 視界の隅が一瞬ぼやけた。


 「!」


 夏美が動いた。隙と呼ぶには刹那の一瞬、冬華は一ミリの遅れもなく反応していた。夏美が膝を曲げ、空へと伸び、スナップを利かせた手からボールが離れる。冬華は全力で距離を詰め、ボールめがけて跳躍し、指先をギリギリで届かせて、それを阻む。


 そのはずだった。


 「……え、」


 彼女は膝を曲げるどころか、ボールを構えてすらいなかった。ボールが収まっていたであろう位置にはプラプラと両手が開いて振られている。


 バス


 振り向くと、そこにはリングを通り、コートに着地する瞬間のボールがあった。


 冬華はようやくそこで気が付いた。彼女が既にシュートを打っていたことに。


 「はい、これで終わり。」


 冬華はその場にへたり込んだ。トン、トン、トンとやがて弾むのを止めたボールを夏美はリュックに仕舞う。


 「じゃ、コートは好きに使って。もともと私のモノじゃないけど。」


 その言葉が導線となった。冬華は息の整っていない身体を無理やり押しやって、帰ろうとする夏美の肩をぐいと引き寄せた。


 「ふざけるな、負けたのは、私。」


 「違うよ、コートを使うのはあなた。だって、あなたは私に勝ったんだから。」


 「……はぁ?」


 「あ、でも落ち込まなくてもいいからね。あなたは凄い。それは試合をした私が一番身に染みてる。ただ、相手が悪かった。それだけだから、じゃ!」


 夏美に振りほどかれた手を冬華はもう一度伸ばしたが、その手が夏美に触れるこは無かった。張り詰めた糸が解けた瞬間、心臓が鼓動を思い出したように暴れ出した。冬華はただじっと、小さくなる背中を見つめ続けることしかできなかった。

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