陽炎の記憶(短編)
黒神
第1-1話 衝突
息ができなくなるまで走り続けた。
視界が歪み、足がもつれて倒れ込みそうになるのを必死でこらえたが、努力も空しくアスファルトへと転がった。鉄板の上で蒸し焼きにされるかのような熱に耐え切れず、ゴロゴロと雑草の茂る脇へとまた転がる。
(草、あっつ。汗、とまらん)
周囲の視線など気にする余裕もなく、夏美はめくれた裾を額に被せ、汗を拭いた。既に汗でぐっしょりと濡れていたシャツは色濃い雲模様を付け、盛大な落書きを残す。
夏美は腕時計のストップウォッチを確認した。
「…また負けた。秋姉、どんだけ速かったんだよ。」
今年の春から高校生になった
『練習ノート』を発見した時、嬉しい気持ち半分、自分が相手にされていなかった苛立ち半分といった複雑な気持ちだった。それどころか、ハンデと称して遅れてスタートしていたのも、練習をマンネリ化させないための画策であったと知った時には、悔しさよりもあまりのストイックさにただただ呆然としていた。
夏休みとはいえ、早朝の公園は寂しいほど人がいない。カラフルなランニングウェアを着たシルバーランナーと、孫娘のように品のいいトイプードルを抱えて散歩しているシルバーウォーカーがいるだけ。
(毎回見かけるけど、あれは散歩しているというのだろうか。それとも散歩されているというのだろうか。)
ぼんやり眺めているうちに手からボールが離れてしまい、ボールは蜘蛛の巣の失敗作のようなサッカーゴールに吸い込まれていった。
この赤レンガコートはフットサル程度のコートの中にサッカーゴールが二つと、コートの真ん中あたりにバスケットゴールが鎮座している。必然、どちらかの競技が行われていた場合もう一方は強制的に待たされめ、サッカーゴールには九割方恨みしかなかった。
色だけで命名されたレンガのレの字もない公園のアスファルトは熱を帯びると一層やる気を帯び、ぐわんぐわんと夏美の視界が汗ばむほどやかましかった。秋に「それは
(炎なんて漢字を使うぐらいだから、よっぽど気温が高い時にしかみれないんだろうな。まあ、暑いのなんて洗濯物がすぐ乾く以外にいいことなんてないけど。)
フリースローラインの外から三本連続でシュートを入れた後、右から左からレイアップを何度目か繰り返した時だった。
「……」
視線を感じて木材のベンチをチラ見する。夏美は自分と同じぐらいの背丈の女がじっとこちらの方を見つめている。顔を確認し、自分の記憶と照合した。しかし、学校のクラスメイトとも、バスケットボール部の友達の誰とも一致しなかった。
(このあたりだと西山高校の生徒、かな?バスケ部が強くて有名だけど、私の頭じゃ箸にも棒にも引っかからなくてやめたっけ。)
女はリュックからバスケットボールを取り出すと、ダムダムとドリブルを始めた。
(この時間に被ったの初めてだな。)
こういうとき、秋姉のように懐に漬け込めるスキルを持っていたら、一緒にバスケができ、友達も増えるのかなと思いつつ、『懐に漬け込む』が手癖の悪いナンパ師の紹介みたいだなとツボにはまり、笑いをこらえるのに必死だった。
結局、夏美は特に声を掛けることもなく、コートの左半分を意識的に使うようにした。やりたければ勝手に入ってくるだろうし、シュートさえ被さらないよう気を付ければ一つのゴールでだって問題ないはずだ。そんな夏美の考えは、
「っ!」
頭部に硬質な衝撃を受け、訳も分からず前転した。特別鍛えたことのない警戒心が、周囲を確認し、安全を確保するよう告げる。追撃の手がないことを確かめると、夏美は犯人に向かって一直線にコート一杯を踏み鳴らしながら近づいた。
「痛ったいじゃんか!」
襟首を掴み、語気が強まる。胸の奥底から沸き上がる怒りが拳に伝わり、思わず振り上げそうになる腕を残った理性が制止する。
「邪魔。」
「……は?」
「コート、使いたいんだけど。」
「空いてるじゃん。」
夏美はコートを指さして言う。
「あなたが使っていたら、私が使えない。」
「いや、だから、こんだけスペースがあるんだから、融通し合って使えばいいじゃん。」
「私、個人練習は一人で集中してやるの。他人の放ったボールに逐一気にしながら練習とかしたくない。だから早朝の時間を選んだのに、先客がいるなんてついてない。」
夏美は額に血管が浮かび上がるのを、鏡でも見るようにはっきりと自覚できた。
(これはあれだ、集団生活が苦手とか協調性が欠けているとか、そんなのじゃない。唯我独尊、これまで自分を最優先にし、他の疎まれ口すら気にも留めず、自尊心が育ちに育ってしまった人間の成れの果てだ。)
仮にもチームスポーツをやっている人間の性格とは思えなかった。
「東谷高校の生徒でしょ。」
「それが何か。」
「少し前に練習試合した。」
「ああ、やっぱり西山高校の人だったんだ。」
「弱すぎて相手にならなかった。」
夏美は反論しようとして、口をつぐんだ。今の東谷高校はお世辞にも強いとは言えない。そう遠くない過去、全国大会に出場したこともあったが、スター選手の卒業と共に名声は地に落ちていった。
「だから私に場所を譲って。私は真剣に、今の高校で全国を目指してる。思い出作りにバスケしているわけじゃない。」
「のやろう、そこまで言うからには実力で分からせてくれるんだろうな。」
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