目覚めの鐘を打ち

「いいよ、カレン。いつでも」

 魔剣リディルを抜き、僕は身構える。

「ん」

 カレンは頷くと、魔術の詠唱を始めた。


「——波濤はとうを研げ。颶風のわきに抱け。そらへ座せ。夜と沈め……」


 それは彼女にしか扱えない、あらゆる魔力の流れと属性をなぎにする、魔術無効化マジックキャンセル——魔王を閉じ込めている因果遅延の結界を解除するためのものだ。


 ただ、もちろん。

 結界を解除して魔王を解放するだけ、なんてことにはならない。

 同時に幾つもの手を打つのがアリスさんの立てた作戦だ。


「意識。季節にあがなうその二律にりつ。無識。色彩に立ち止まるその四衢しく……」

「——つつましくはすみれ、巡りゆくは終夜しゅうや晴天せいてんに鳴るかねの音は、夜が明けてもなお伽藍がらんに鳴る」


 カレンの詠唱に重ねるように、続けて、僕も。

 魔術を稼働させ始める。


 そして、更に。


「選んで、春。とこしえに若く揺籃ゆりかごは、微睡まどろめ、安らげ、眠れ、死ね」

ことわり重ねて、あかあおみどり……」

「——ひとつ。霊峰れいほうは、白点はくてんに極地を見る。ふたつ。散華さんげは、極点きょくてん起振きしんを聞く」


 カレンと僕へ追従する形で、背後から声。

 母さんもまた、魔術を編み始める。


 カレン=トトリア=クィーオーユの、スイ=ハタノの、そしてヴィオレ=ミュカレ=ハタノの——三人の魔力が見る間に大気へ満ち、それぞれのかたちを彩っていく。


 僕はもちろんカレンも、母さんさえも、言語圧縮を行わない。正式な発音での完全詠唱は完璧な緻密さで魔力を回路化していく。


「定めて、なぎ幽世かくりよはざまに羽根の音を、撫でよ、叩け、切り裂け、殺せ」

「三つをあわせ、かしてはしれ。くろから始まり、くろへと続け——」

「並べて、青と赤、爆ぜろ!」


 輪唱のように響く言霊たちは、やがて同時に終わりを告げた。

 春凪はるなぎの色が、可惜夜あたらよの色が天鈴てんれいの色が、空間を染めていく。

 それとともに母さんの横に控えていたショコラが低くうなり、身構える。


 つまり、初手は僕らハタノ家の四名。

 まずはこの四名で、魔王に仕掛けるのだ。


 僕が魔剣リディルを掲げたのが合図。



「……『白玉楼霧はくぎょくろうむ春凪はるなぎうつす』!」

「——『回天かいてんは、可惜夜あたらよを嘆く』」

「……『叫喚きょうかんする菫は、天鈴をどよもす』!」



 刹那。

 まずは霧。風と水の複合属性、真っ白なもやが魔王を包んだ。千八百年の昔に彼らを封じ込めた因果遅延の結界ごと、魔力は押し潰され、属性は掻き消され、すべてが凪となる。


 そこでまず動きを再開するのは、魔王の周囲で静止していた蟲の変異種たち。小型でたいしたことのないそいつらは、しかし数十匹という物量と本能のみのシンプルな行動原理で、千八百年前の続き——飛んでいき思うがままに暴れ回れという本体の命令に従おうとする。


 だが、叶わない。

 ここには天鈴の魔女と、変異種殺したる妖精犬クー・シーがいる。


 炎を纏った氷塊という矛盾した魔術が数多のつぶてとなり、ボウと燃えながらシンと放たれ、

「わおんっ!」

 ショコラが光に包まれて疾駆する。


 それらの速度は変異種の羽よりも、魔王の目覚めよりも上だ。

 何故なら、僕がいるから。


回天かいてんは、可惜夜あたらよを嘆く』——その効果は、


 アリスさんを助ける時に使用した『黎明れいめい過仄かそく』が因果を手繰り寄せてものだったのに対し、こちらは因果の流れを早回しして、というものだ。消費魔力量が『黎明れいめい過仄かそく』ほど多くない代わりに、繊細な操作を必要とする。


 父さんの魔剣リディルからは細い鎖が生えていた。

 黒いそれらは、敵にではなく味方に伸びて絡まっている——母さんの腕に、カレンの手首に、ショコラの後ろ脚に、まだ待機している他のみんなにも。


 鎖といっても質量を持たない魔力の塊だから、動きを阻害することはない。それでいて僕の魔術を対称の肉体に付与してくれるのだ。鎖で直接流し込む形だから、カレンの魔術無効化マジックキャンセルの影響も受けずに済む。


 ただでさえ身体強化をかけているみんなの動きと反射神経は今や、音よりも速い。

 再飛翔を開始した変異種は、羽を動かすよりも前に撃ち落とされていく。


「……がうっ!」

 光の矢となったショコラが蟲の体躯を真っぷたつにし、

 ——バン

 母さんの放った弾丸は蟲を貫くと同時に燃やす。


 そしてそれらの死体は爆発しない。何故なら、カレンの魔術が効いているから。魔力を圧壊することで荒れ狂う属性も平坦にしてしまう魔導の前では、死体の魔力を坩堝水晶クリスタルが取り込んで暴発するという現象そのものが起き得ない。


 一方。

 魔王は動かなかった。

 のだ。


 僕らの動きが加速していて、遅延結界の解除から0.1秒と経っていないからというのはもちろんあるが、それ以上に——再び動き始めた時の流れにまだ対応できていないというのが大きい。


 同じように結界に封印されていたアリスさんは、引っ張り出した衝撃で気を失い、それから半日以上も眠っていた。最初の一時間ほどは本当に意識もなく、そこから先は瞼も開かないほど身体が自由にならなかったそうだ。


 因果遅延が解けた瞬間、身体には千八百年という時間の流れが一気に押し寄せてくる。その衝撃はおそらく身体のサイズや魔力の大きさ、脳機能の複雑さに比例する。アリスさんはそう推測した。


 ——「魔王の産んだ変異種みたいな奴らはわかんないけどさ」


 昨日、彼女は僕らに語った。


 ——「魔王あいつは身体もでかいし魔力もとんでもない。理性がないとはいえ、脳だって蟲よりは大きいはずだよ。だから少なくとも一瞬……一秒二秒くらいは隙ができると思うな」


 一秒か二秒。

 その間隙かんげきをフルに使って優位を取り、そのままの勢いで一気呵成に片を付けるという作戦を——。


 僕は時間加速の魔術をそのままに、剣のつかから左手を離し、そのまま腕を高く掲げて合図を送った。

 言葉では遅い。

 音よりも速いその動作は、相手へすぐに届いた。


 背後で気配が立つ。



 ——さあ、次はあなたの出番だ、ジ・リズ。

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