インタールード - クィーオーユの森:墓前

 夜半。


 家族たちが寝静まり、竜族ドラゴンの巨体が思いのほかささやかな寝息を立てる中、ヴィオレは寝床から抜け出し、その場所へ赴いた。


 葡萄酒ワインの瓶を小脇に抱えながら、暗闇を迷いのない足取りで進み——やがて森を抜けて小高い丘の上、かつての友人たちが眠る場所へと辿り着く。


 深く呼吸して夜の空気を吸い込み、空を見上げて月を眺め、それから墓前に腰を降ろしたところで背後から気配があった。


「カレン?」

「ん、起きたのに気付いたから。……私は、いない方がいい?」

「そんなわけないじゃない。こっちにいらっしゃい?」


 ヴィオレは微笑むと、愛しい義娘むすめを手招きする。茂みの中から姿を現したカレンはとことこと歩み寄ってくると、隣にしゃがみ込んだ。


 ふたつの墓碑ぼひを前に——は丘の方を向いているので、正面からではなく背後に座る形ではある——ふたりはしばし黙祷する。


 やがて目を開けたカレンが、問うてきた。


「魔王との戦い……ヴィオレさまは、怖くない?」


 だからヴィオレはそっとカレンの頭に手を遣り、撫でながら答える。


「昔なら、怖くなかったかもね」

「昔?」

「ええ。私はもともと、壊れた生き方をしていたから。この世の誰よりも自分は強いと信じ込んでいたし、どんな魔物を前にしても恐怖なんか感じなかった。……いいえ、恐怖という感情を知らなかったのよ」


 正確には『知らなかった』ではなく『忘れていた』か。

 何故ならヴィオレは幼い頃、あのミュカレの屋敷で怯えて過ごしていたのだから。両親が自分を蔑んだ目で見てくる時に感じるあの気持ちは、紛れもなく恐怖だったから。


 ただ——力を得て、屋敷を出て、冒険者として過ごすようになって。


 己の魔導にかなうものなどいないと自信を付けることで、その思いは記憶の彼方に追いやられていった。矜持を保つには不都合な感情だと、見ない振りをしていた。


「じゃあ今は、違う……?」

「ショコラを拾った時。ルイスとエクセアが死んだ時。あなたを引き取って、抱っこした時。スイくんを産んだ時。それに……お父さんとスイくんとショコラが、転移しちゃった時」


 撫でる指が意識せず強張る。

 震えているのが、自分でもわかった。


自棄やけっぱちに生きてきた私に、大切なものができた。私がどんなに強くても、できないことがあるとわかった。そして大切なものを守れずに、手からこぼれ落ちていった。それで、理解したの。これが恐怖なんだって。怖いって感情なんだって」


 幼い頃、両親に抱いていた恐怖と、根っこも発露も全然違うけれど。

 誰かを愛することを知り、完全無欠の存在ではないと自覚したことで——目を背けてきたその感情と、向き合うことになったのは確かだ。


 義母の言葉を聞いたカレンはしばらくの間、沈黙していた。

 だがやがて、ヴィオレの背中にそっと手を添えて、言う。


「ヴィオレさま、私も怖い。でもたぶん、それは強いってことだと思う」

「……が、?」

「ん」


 義娘の視線は、実の両親が眠る墓碑に向けられていた。


「守りたいものがあって、それを失いたくない。だから戦うのが怖い。実のお父さんとお母さんも、きっと『大発生』の時、怖かったと思う。……赤ちゃんの、私がいたから」


 あの日の記憶に、思わずヴィオレの身がすくむ。


 ヴィオレとカズテルは、間に合わなかった。

 この世に自分たちとする相手などいないと思っていたのに。無敵だと思っていたのに。逃げ惑う人混みと封鎖された壁、たったそれだけのものに——そんなつまらないものに、ヴィオレたちは勝てなかった。


 だけど、無力感や後悔よりも思い出すのは、親友たちの最後の姿だ。

 妻と子を守るように死んでいたルイスと、愛し子を抱いてかばい、瀕死の重傷を負ったエクセアの姿なのだ。


「お父さんとお母さんは、私を守って死んだ。……私を、守ってくれた。私を守れるくらい強かった。そして、それはきっと、怖かったから。怖かったから、強かったんだと思う」


 襲ってきた変異種どもは皆殺しにされていた。ふたりは本来の実力以上の意地を見せて、命と引き換えにカレンを守りきった。


 駆けつけたヴィオレたちを見て、事切れる前のエクセアは最期に笑ったのだ。

 笑って、安心したように、言ったのだ。


 ——このこを、おねがい。

 どうか、しあわせに、してあげて——。


「……あなたの言う通りよ、カレン」


 ああ。

 彼女のあの言葉は、紛れもなく強さだった。

 だって、世界最強の魔女、その人生を捧げさせたのだから。


 ならばヴィオレもまた、強くなければならない。

 親友のその強さを、嘘にしてはならないのだから。


「怖いわ。私は怖い。魔王という未知の存在を相手にするのが、大切なものを失うかもしれないのが怖い。でも、だったら……その恐怖は、強さの源になるのよね」

「ん。……私も、怖い」

「きっとスイくんもショコラも、ジ・リズも、アリスさんたちも怖いはずよ」


 みんな、大切なものを持っている。

 みんな、怖さ強さを抱いて戦いに臨む。


 愛する義娘の肩を抱き寄せる。

 かつて親友たちに託された約束と、身を寄せ合う。


 葡萄酒ワインの栓を開け、墓碑の前にそっと置きながら。

 ふたりは夜空を見上げた。


「それに、ヴィオレさま。私たちはもう、充分に強い。だって、たくさんの怖さをもう味わってるから。十三年前に、失うことを知ったから」

「そうね。あの日から、スイくんとショコラが戻ってくるまで……私とあなた、ふたりでたくさん頑張ったものね」


 あの時の絶望をもう二度と繰り返すな。

 闇の中で糸を探すような必死の十三年間を忘れるな。

 そして、積んだ研鑽けんさんを誇れ——。


「今はもう、私とあなただけじゃない。スイくんもショコラもいるし、アリスさんたちもいる。ジ・リズまで手伝ってくれる」

「ん。無敵。みんな、失うことの怖さを知ってる。だから私たちは強い。負けない」


 ルイスに、エクセア。そしてカズテル。

 届かずに手からこぼれ落ちてしまった、大切な人たち——けれど彼らもまた、失うことを恐れ、そのために強く在った。彼らが強く在ったからこそ、彼らに守られたからこそ、自分たち家族はここにいるのだ。

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