そんなの、わかるよ。

「よーしよしよし……うん、満足した。ありがとね」

「わふう……」


 かくして長老会の面々は部屋を辞し、僕ら一家とアリスさん、そして四季シキさんとシキさんが残される。

 アリスさんが最初に所望したのは、ショコラを撫でることだった。


 日本にいた頃、家族以外には触れさせないという強いポリシーを持っていた我が相棒は、こっちの世界に帰ってきてからというものすっかりその矜持きょうじも薄れ、今はもう「まあ仕方ないなあ」くらいなノリでちょいちょい撫でられることを許している。……まあ、日和ひよったとかそういうんじゃなく、単に心が広くなったみたいな感じっぽい。


「みんなお前のこと好きなんだよ」

「わうっ! くぅーん……」


 ただやっぱり、他所よそさまの後には口直しというか、家族に甘えてくるんだよね。アリスさんから解き放たれると、僕のところへ来て身体を寄せてくる。

 あごの下をがしがししてやる。きゅーんと鼻を鳴らしてご満悦。


「よし、じゃあ見張りを頼むな。母さんも、お願い」

「わん!」

「ええ、任せて。音も漏れにくくしておいたから」


 ショコラと母さんが連れだって、部屋を出ていく。これからする話は第三者に聞かれるわけにはいかない。近寄ってくる者がいないよう、ふたりに警備を任せることになっていた。特に母さんは、部屋の内側に薄い氷の膜を張り、ここを簡易的な防音室にしてくれていた。


「お母さん、すごい魔導だね。……始祖のエルフにまさるとも劣らない」

「ええ、自慢の母親です」


 感心したふうのアリスさんに向き直る。

 すると彼女はすうと目を細め、気配に鋭さを混じらせてこちらを見た。


「それにしても。……きみ、どこまでなにを知ってるのかな。そして、どこで知識を得たのかな。異世界転移についても私よりいろいろ詳しいみたいだし」

「ちょっと事情がありまして。転移は現在、境界融蝕ゆうしょく現象と呼ばれてます。起きる度に時代も国もばらばらなところから『来る』みたいですよ。……まあ、そういう話は後にしましょう」


 僕はスマホを取り出す。


「それもすごそうだね。なんの機械なの?」

「スマートフォン……携帯電話、わかります?」

「ケータイ!? それが? マジで? ボタンとかどこにあるの」

「まあ、そういうのもおいおい……」


 どうも推測するに、アリスさんたちの日本は僕の生きた時代よりも二十年か、三十年か、そのくらい前みたいだ。スマホは知らないけど携帯電話はわかるようだし。


 ともあれ、


「これ、見てください」


 アルバムから写真を選び、彼女の眼前に掲げる。


 それは——写真に収められているのは——あの日、ミントが撮影した森の風景。

 カメラを覗き込んでいる、


「それって、写メ? 妖精……? え」

「見ましたか? 見ましたね」


 アリスさんがきょとんとしたのは、写っていたものを怪訝に思ったのもあるのだろうけど、もちろんそれだけではない。


 彼女の背後。

 今まで誰もいなかったはずの空間に、気配が現れた——からだ。


 僕の言葉よりも早く、弾かれるように。

 彼女は振り返った。


「あ……」


 ——そこに立っていたのは。

 魔導まどう灯に照らされた、ふたり、人影。


 歳の頃は十一、二歳ほどの子供たちにしか見えないだろう。

 おまけにふたりとも奇妙な意匠のドレスを纏っていて、背中には薄羽うすばまでが生えていて。

 彼らは——彼女たちは、アリスさんの知っている、かつての姿では、ない。


 だから四季シキさんは緊張した面持ちだった。

 シキさんは怯えるように縮こまっていた。


 あんなに切望していたのに。


 いざ対面を果たしてみれば。

 なにを言えばいいのか、悩んでいる様子だった。

 なにから言えばいいのか、迷っている様子だった。


 そりゃあそうだ。だって四季シキさんもシキさんも、姿は変わっているし、なにより名前が——人間だった頃の名が、わからない。


 二千年前の記憶をかなり思い出せている四季シキさんたちは、にもかかわらず、自分たちの本名だけはまだどうしても思い出せずにいるんだ。


 だけど。いや——だから。

 うつむき加減に躊躇ためらっていた四季シキさんたちよりも先に。

 口を開いたのは、アリスさんだった。



「うそ……薫子かおるこ。それに、歳也としや



 薫子さん。そして、歳也さん。

 それがシキさんと、四季シキさんの——。


「……なんで」


 それからたっぷり、とおほども数えただろうか。

 わなわなと震えながら、唇を震わせながら、シキさんが言う。


「なんで、わかるの」


 目を潤ませながら、口元を押さえながら、声を上擦らせながら。


「わたし、わたしたち。こんなになって、なにもかも変わっちゃって。年齢も、外見も、人のものじゃなくなってるし……名前だって、あの頃の名前、自分たちでも思い出せなくなってて、なのに。なんで、わかるのよお……」

「わかるよ」


 アリスさんは笑った。

 目に涙を溜めながら、それでも笑った。


「そんなの、わかるよ。親友だもん。いちばん大切な、私の親友だもん。わかるに決まってるでしょ? どんな姿になったって、あんたのこと……あんたたちのこと、わからないはずがないじゃん」


 シキさんが一歩。

 アリスさんが二歩。

 四季シキさんがシキさんの背を押して、三歩。


 互いに近寄りながら、


「あり、す」

「……なんなのよ本当。これ、夢じゃないよね? 領域の中でずっと、頑張ってたご褒美なのかなあ。先に死んじゃったみんなに悪いや。生きて出られただけじゃなくて、こんな……こんな」


「アリス……アリス」

「薫子。会いたかった。ずっと会いたかった。二百年、あんたが一緒にいてくれたらどれだけ良かったかって、何度もそう思って。子供ができたとき、誰よりも報告したかった。私、母親になれたよって。産まれるたび、あんたは叔母さんになったんだよって。ずっとずっと、直接言いたくて、喜んでほしくてさあ。……それが……それがっ」


「ありす……ありすう! うゔゔ……」

「泣ぐなよお。私だって、わだじだってええ」


 シキさんがついに身体ごと、アリスさんに飛び込んで。

 アリスさんはそれを受け止めて、抱き締めて。

 あとはもう、言葉にならない。


「うえええええん!」

「わああああああ!」


 子供みたいに嗚咽おえつしながら、ふたりの親友は再会する。

 二千年ぶりと二百年ぶりの、再会を果たす。


「っ……無理、私も」


 カレンが僕の肩に顔を埋めてきた。体温は高く、ひくひくとしゃくりあげている。

 僕だって同じだ。視界が滲んで前が見えない。


「スイくん……ありがとう。本当に、ありがとう」


 こちらもぼろぼろと涙を流しながら、四季シキさんが僕に笑いかけてくる。

 僕はこくこくと頷くばかりで、返事にならなかった。



※※※



 アリスさんの胸に顔を埋めて滂沱ぼうだする、シキさん——薫子さん。

 その目尻からぼろぼろと、涙がこぼれていく。


 けれど透明な雫たちは、宝石にはならず、アリスさんの胸元を濡らしていく。

 僕にはその理由がわかる気がした。


 だってこの涙は、幽世かくりよの存在が現世うつしよへと落っことした悲しみなんかじゃなくて——ひとりの人間が、親友と再会した喜びなんだから。

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